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1無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/25(木) 01:24:49
やっぱ関羽?
2 : 神ツコツ ◆hsM5cuRuF6jy [sage] 投稿日:2009/06/25(木) 01:44:43
2ゴッド!
やっぱ関羽?
3 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/25(木) 05:22:17
魏延かな
4 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 05:34:38
劉備です
5 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/25(木) 07:34:11
孔明
6 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/25(木) 08:38:56
転移
7 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 09:18:41
しょうが
8 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/25(木) 13:03:42
劉禅
9 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/25(木) 14:13:23
姜維伯約
10 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 14:27:41
婿太郎かな
11無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/25(木) 14:36:58
1 陸遜
2 孫権
3 鄧艾

だと思われる
この中の一人でもいなければどう転んでたか・・・
12 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/25(木) 15:25:17
孫権がいなきゃ、そもそも蜀が成立する流れにならんべさw
13 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/25(木) 15:47:39
張松とかいう奴
14 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 16:11:19
>>11
孫権外して呂蒙か曹真、馬謖あたりでも
15 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/25(木) 16:13:15
やっぱ関羽
16 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 17:10:27
劉備
17 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/25(木) 17:33:28
関 羽
18 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/25(木) 22:04:09
しかし、なんだかんだ言っても献帝が禅譲した時点で蜀漢の負けは確定してた気はする
民衆としては劉禅の選択はベストのものだっただろうし
19 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/26(金) 00:42:08
劉備
20 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 00:44:49
姜維しかいねえわ
21 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/26(金) 00:47:36
孔明
22 : 神ツコツ ◆hsM5cuRuF6jy [sage] 投稿日:2009/06/26(金) 00:47:49
一番の原因=人材不足
23 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/26(金) 00:49:57
兀突骨
24神ツコツ ◆hsM5cuRuF6jy [sage] 投稿日:2009/06/26(金) 00:52:19
兀突骨
25 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/26(金) 00:53:07
>>24
売名行為乙
26 : 神ツコツ ◆hsM5cuRuF6jy [sage] 投稿日:2009/06/26(金) 01:11:31
忙牙長
27 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/26(金) 01:20:20
劉備
28 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 01:55:18
孟達
29 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/26(金) 07:06:42
孔明
30 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/26(金) 09:31:59
劉備
31 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/26(金) 09:56:24
曹操
32 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/26(金) 10:37:36
劉備
33 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 10:49:22
成立自体にムリがあったから、
戦犯なぞいない

あえてあげるなら創業者グループ全員
34 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/26(金) 17:50:05
不況
35 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 17:54:49
劉備
36 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 02:46:01
黄皓
37 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/27(土) 02:57:35
劉禅五三
38 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/27(土) 03:03:03
北伐なんかせずに魏に朝貢してればよかったんだよ だから戦犯は孔明
39無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/27(土) 03:24:19
劉備が皇帝を名乗った時点ですべての大義名分なくしてる気がするんだよなあ
40 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 04:00:17
霊帝
41 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 11:36:43
蜀を作らなければ滅亡することもなかった、したがって劉備。
42 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/27(土) 12:24:12
やっぱ孔明
43無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/27(土) 12:31:09
>>39
光武帝も自分より本家筋の
ジュ子エイや更始帝がいるのに即位しとるがな
44 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/27(土) 14:12:13
劉備
45 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 15:10:05
最大十万前後の兵力を動員可能で
普段は要害を武器に魏といえど容易には攻められない
もし蜀に曹操並みの天才がいたらもっと早期に決戦して滅亡したか
大勝して魏に勝てた可能性も少しはあったかもな。
いずれにせよ魏が磐石なら勝つのは難しい戦略だよな
46 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/27(土) 20:55:19
劉備
47 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/27(土) 21:14:39
>>43うーん 確かに wikiで光武帝のとこ読んだけど、劉備の行動はすべて光武帝を真似てるだけなんだね
48 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/27(土) 22:17:00
やっぱ時代だな
49 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 22:45:23
まあ、『真似た』のか
それとも『似た』のか
どっちでもいいけれど
かたや統一王朝復興、
かたや地方政権創業、
この違いは大きいな
50 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 22:57:21
劉邦、劉秀、劉備

この三人は結構似てる
51 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/28(日) 07:04:10
やっぱ劉備だな
52 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/28(日) 08:37:24
陳式
兵5千失った
53 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/28(日) 12:49:39
バブル崩壊だな
54 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 19:47:56
姜維、かなり現実的に考えて
55 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/28(日) 20:49:09
戦犯は当然だが張世平
馬と金タダで寄付したもんだから劉関張からハングリーさを削いだ
奴がいなけりゃ譲られた徐州は小沛を首都に天下統一しとるわ
56無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 10:28:56
>>43
そもそも劉秀が冷静に考えて大義名分に乏しい

勝手に皇帝になっただけだから
57無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/29(月) 13:21:46
俺もチャンスがきたら勝手に皇帝を名乗る
58 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/06/29(月) 14:45:14
>>57
麻生政権に取って代わってくれ
59 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/07/03(金) 06:21:00
劉備
60 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/07/03(金) 08:35:40
やっぱ孔明
61無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/07/03(金) 08:38:19
待て待て、劉備の並みならぬ裏切りの才能によって蜀が成立したんぜ。
政治の才能がカスすぎて呉との仲は悪くなるし、曹仁にはフルボッコ。
部下への扱い酷すぎて、結果裏切られるという人望の無さ。そいつの名は、関羽雲ちょよ!
62 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/07/03(金) 11:46:46
>>57
その時は俺も呼んでくれ
義兵を募って馳せ参じるわ
63無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/07/04(土) 17:53:02
登山家
64 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/07/04(土) 23:20:22
>>57
その時は俺もよろしくな
>>62に募られて馳せ参じるから
65 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/07/04(土) 23:21:08
じゃあ俺馬提供するわ
66 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/07/05(日) 02:21:28
>>61
>曹仁にはフルボッコ
これは違うだろ
徐晃や呂蒙には一方的にやられてるけど
67 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/07/05(日) 02:32:03
関羽
68 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/07/11(土) 16:24:52
>>56
禅譲を受ける、若しくは前王朝を放伐して覇者となったものが皇帝を名乗る

・・・のに、何の不都合が?
69無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/07/12(日) 02:24:08
正式に献帝(漢)から禅譲を受け、帝位を引き継いだのは曹丕(魏)
つまり僭称者は劉備
この時点で駄目だわな
蜀漢正統論てのは後世のものであって、当時は放伐もしくは禅譲を受ける=正統だろうし
70 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/07/12(日) 05:15:10
>>63
馬謖のことか
71 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/07/12(日) 12:54:02
>>69
劉備のところには献帝が殺されたという知らせが届いてたからなあ
まあ当然建前に過ぎないんだろうけど
72 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/07/12(日) 15:02:07
献帝が生きてようが死んでようが廃されてる訳だし
劉備は最初から自分が皇帝になるつもりだったんだと思う
73 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/08/13(木) 08:36:07
劉禅
74 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2009/10/06(火) 03:59:45
ありがちだけど劉備だろ
75 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/10/06(火) 09:09:52
しかし劉備がいないと蜀漢自体が成立しない
76 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/10/06(火) 19:39:45
そもそも劉備は蜀を取るべきでは無かったよな。
止めとけばもう少しマシな死に方出来たろうに。
蜀攻めは領土を得る代わりに、信用という一番大切な物を失った。
77無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/10/10(土) 12:30:02
言うまでもなく劉禅
こいつが内政に力を入れて国を富まして司馬一族のクーデターにつけこんでいれば・・・
78 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/10/18(日) 08:59:58
>>77
それだったら北伐でそのチャンスを生かせず
国を疲弊させただけの姜維でしょ。
79 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/11/05(木) 06:08:29
姜維の強引な北伐の繰り返しがなけりゃもう10年は長持ちしたと思う。
80 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 02:32:55
たった10年か 哀しいな
81 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 03:36:03
姜維がやらなくても近い内に誰かがやってたんじゃないかな。北伐。
なんだかんだで蜀の大半の人は「打倒曹!漢室復興!我等こそ正統!」ってのが
モチベーションだっただろうし、その辺を蔑ろにしてたら人心も離れちゃうだろうし。

だからこそ費イも「俺らじゃ無理だってば。やめとこうよ」とか言いつつも
1万までは出兵を許してたんだと思う。
82 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 01:29:29
諸葛亮
83 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2010/02/05(金) 18:23:44
陳祗。宮廷の腐敗を許した。
84 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2010/02/05(金) 18:39:55
姜維 劉備 関羽
この3人は殿堂入りでいいだろ
85 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2010/02/08(月) 13:50:29
降伏を決断した劉禅
綿竹で負けた諸葛瞻
陽安関で降った蒋舒
段谷で負けた姜維
上邽に来なかった胡済
86 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2010/02/08(月) 14:51:34
関羽、劉備、諸葛亮はなぜ統一出来なかったのか部門だろうな
87 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2010/02/08(月) 16:09:51
鄧艾の活躍がほとんどじゃね
88無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2010/04/21(水) 00:38:35
姜維は軍人なので内政担当ではない。戦争ばかりで内政を省みなかったとか
言われるのは心外。ヒイあたりが劉禅の悪性をいさめる事もなく民から搾取していた
政治を改めなかったため滅びた。
89 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2010/05/11(火) 23:50:29
姜維は軍人ではあるが、同時に録尚書事として宰相としても権限を振るえる筈だった。
尤も、上手く振るったところで末路は諸葛恪と類似した結果だったかもしれん。
しかし、軍事によって求心力、権威を得た姜維が、敗戦により権力を失うのは当然でもあった。

楊戯の一件なんかでも、トップとしての適正に疑問が。
怠惰で反抗的であるにしても、罪らしい罪もないのに告訴して追い落とすのは、
蒋エンとの器の差を感じさせるね。
90 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2010/05/15(土) 23:29:04
適当に弄ってビチョビチョになったら肉 棒ズブリ……
後は腰振って出すだけで、月50万とか稼げるんだからボロイよな(笑)
http://chinirichi.net/rico/23mojii
91 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2010/05/16(日) 22:00:16
竜々を見殺しにした紳々
92 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2010/05/20(木) 20:18:36
>>88,>>89
むしろ費褘存命中から録尚書事でありながら
全くと言っていいほど国政に関与しなかったことが
政治と軍事を分離させた最大の原因だと思うけど
93 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 12:28:28
録尚書事は元々、太傅と太尉の二人体制(かそれ以上)で、
行政権を文治と軍事で分割していたと考えられる。

諸葛亮、蒋エンの時代までは一人に権限が集中していたが、
費イと姜維が両立した時代には、行政全般の費イと、北伐の実務担当の姜維に
分けられていたと考えられる。
費イは漢中軍事も姜維一人に任せず、漢中と成都を往復した。
253年の費イの急死後、漢中軍事は姜維に委任されただろうが、
本国内の行政には録尚書事を立てずに侍中守尚書令の陳祇に任せられた。
陳祇と姜維の関係は良好で、大規模な北伐が行われた。
これは当然、劉禅の是認によるものということになる。
姜維の許で行われた大攻勢は三年の間順調だったが、256年に段谷の敗戦があり、
258年、陳祇が死亡した。その同年に姜維は成都に戻った。
これが録尚書事になってから初めての長期の成都滞留となった。
ここで一時降格されていた大将軍へ復職する。
ここで姜維は「行政権」を握る立場となったはずだが、
陳祇死後の枢機、皇帝の「最高意思決定権」は宦官の黄皓が掌握することになった。
黄皓は劉禅の信任を得て内朝から政治を行い、皇帝専制体制が強まった。
成都滞留の間に、黄皓と姜維との対立は表面化して、姜維は黄皓を除くよう進言しており、
漢中防衛体制の見直しがあり、261年に二人の平尚書事が任命された。
三年間に様々に動きがあったようだが、しかし黄皓への信任は揺るがず、
諸葛瞻と董厥は黄皓の「専横」を容認したうえで政治を執行するスタンスを取った。
262年、姜維は北伐に出陣し、蜀が滅びるまで成都には戻らなかった。
自分を排除しようとする黄皓を恐れたのだという。
成都行政は、劉禅の意を体現する黄皓の指示のもとに二人の平尚書事と尚書令が
執行する形となった。

姜維から見るとどうしようもない流れだな。
北伐の失敗以外は。
94 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 12:31:51
いや、そうでもないか。258年の段階で黄皓の乗政を認めて服従すればよかったんだ。
95 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 20:30:11
やっぱ戦犯は姜維しかいないと思った
96 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2010/06/21(月) 22:09:45
黄皓、姜維
遠因といては関羽の敗戦と孔明の人事ミスかな。

でもまぁよくやったと思う、劉備恐るべし。
97 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2010/07/10(土) 00:39:51
結果的にキョウイに大規模な軍事作戦を許さなかったのは各個撃破を招いただけ
98 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2010/07/10(土) 02:13:07
普通に考えたら劉禅
99名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/10(土) 20:38:49
漢中-武都-陰平の防衛ラインを維持できればよかったのだろうけど。

だから姜維が北伐を続けて疲弊するよりは,
黄皓が全権を握っていろんな意味で守りに入った方が,
まだ「長持ちした」とは思う。

諸葛亮がもう少し領土を広げていればというのもあるけど,
さすがに戦犯扱いするのは無理でしょ。
100 : 名無しさん@そうだ選挙に行こう[] 投稿日:2010/07/10(土) 22:30:26
(  ゚Дメ) 100



101 : 小銀玉@ ◆Gay/Ho..tI [sage] 投稿日:2010/07/12(月) 17:52:08
劉備
102 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2010/08/19(木) 20:23:51
録尚書事って日本でいう関白や内覧だよね。
103 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2010/08/19(木) 20:24:46
戦犯?俺
104無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 06:05:02
>>99
姜維は漢中防衛の為の兵力すら北伐に回し、その上で負けてるからね。
魏のカウンターを漢中で防ぐ手立てが無かった。

いや、一応姜維の思惑としては少ない兵力でも守りえる筈だったんだが、
それも机上の空論でしかなかった。
105無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2010/08/25(水) 20:57:16
>>104
姜維の思惑自体,自身の北伐がうまくいっていること,
要するに涼州方面で優位に立って漢中を攻められる可能性が低いことが前提だろうから,
漢中どころか自身のいる沓中ですら太刀打ちできない事態は想定していなかっただろう。
106 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2010/11/16(火) 15:04:13
例の火井にロウソクを投げ込んだヤツのせい
107 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/01/22(土) 09:10:57
>>105
多分魏が攻めるなら自分の方に来ると思ってたんだろうね。
108 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2011/04/05(火) 00:14:13.99
>>1
君と余だ
109 : Ψ[] 投稿日:2011/04/05(火) 03:11:35.21
110 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/04/06(水) 00:48:16.59
劉備
諸悪の根源
111 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2011/04/06(水) 20:53:03.55
トウガイ
112無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/04/06(水) 21:29:11.35
約1800年もたったことだし、そろそろ蜀漢王朝が再興してもいいころだと思うんだ
113 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/04/06(水) 22:19:22.81
>>112は釣りだとしても
バブル崩壊したらどうなるか・・・
114 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/04/06(水) 22:22:39.01
蜀衰退の原因はホウ統・法正・五虎将軍がばたばた死んだ事だろう。
中でもホウ統。
彼が居れば荊州の外交や糧食管理にまわされて、それをうまくこなすだろうからあの時期に呉の離反と関羽戦死はなかったと思う。
そうなれば荊州はしばらく安泰だし、張飛は部下に無茶を言うこともないし、劉備が無理して親征する事もない。
夷陵の戦いがなければ当時の優秀な人材と多くの精兵が生き残る事になり、人材不足にもならない。
白眉(馬良)や黄権が生き残っている以上わざわざ登山家(馬謖)を抜擢するような事もしないし、劉備なら登山家は左遷する。
法正の病死は仕方ないにしても、それで空席になった漢中方面軍軍師には史実通り諸葛亮をまわせばいい。

要するにホウ統殺した劉璋軍ラク城守備隊、つまり張任達が戦犯かな。
115無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2011/04/06(水) 22:24:51.84
馬謖かな
あのまま街亭を守ってたら…
まあ宮廷を腐敗させた黄皓、諫言とかもうチート
116 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2011/04/06(水) 22:26:14.36
>>115
変な言い方だった、
馬謖と黄皓だ、数えればいくらでもいるが
117 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/04/07(木) 00:31:47.41
劉邦とか光武帝好きだから漢室復興成って欲しかったな。
118 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 01:09:39.88
>>99
逆を言えば、漢中の防衛ラインを構築した魏延は蜀延命の功績者という一面もあったわけだな。
119無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2011/04/22(金) 09:23:30.51
戦犯は間違いなく、井戸の火を消したヤツだろ。
出典は異苑。

====================
蜀の国に、火を吐く井戸があった。
漢帝室の隆盛時には火炎が燃え盛り、漢帝室が衰えると火も弱まった。
諸葛孔明が一度その井戸をのぞいたら、また火勢が盛んになった。
炎興元年、ある人が蝋燭を投げこむと火は消え、その年、蜀は魏に滅ぼされた。

120 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 10:56:47.24
関羽
121 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/04/22(金) 12:16:53.38
>>119
それが原因とはいえん
122 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2011/04/22(金) 15:34:25.97
韓遂
123 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/04/23(土) 00:29:35.93
だから劉備だって
夷陵の戦いが蜀滅亡の引き金

多くの将兵を失ったのは痛いがそれ以上に劉備本人の死でどうしようもなくなる
建国の祖が在位たった3年では長持ちしようがない
124 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2011/04/23(土) 08:06:02.97
関羽
125無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2011/04/23(土) 09:54:30.07
司馬昭 鐘会 トウガイだろ
126 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/04/23(土) 16:44:29.70
>>125
ここでの戦犯ってのは「敗北した責任を負うべき人物」
なので勝利側の魏の人物が戦犯に名を上げるのはおかしな話

直接的には劉禅・姜維
遠因的には劉備
127 : 魏延[] 投稿日:2011/04/25(月) 14:46:06.70
諸葛孔明じゃね?
魏延の献策した子午道から長安を急襲する案を退け、斜谷経由にこだわりすぎ。
戦争を控え国力を充実させ、子午道を整備して魏が弱まるのを待てば、長安くらい落とせた。
魏延の献策を退けたことによる意地があって、戦術の柔軟性・多様性が失われて
作戦が硬直化してしまって、ワンパターンの作戦でいたずらに国力を疲弊させてしまった。
128 : 忍法帖【Lv=1,xxxP】[sage] 投稿日:2011/04/25(月) 20:33:47.33
蜀:呉:魏の国力比は1:3:6だと何かで読んだが本当かねぇ。
そんなに弱かったのか蜀。
129 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2011/04/25(月) 21:31:02.04
関羽じゃねーの?
荊州とられなかったら全然変わった展開になる。
130 : 無名武将@お腹せっぷく[experience193n@yahoo.co.jp] 投稿日:2011/04/25(月) 22:33:06.87
泣いて馬しょくを斬る
131琥珀 ◆Y3QOlaygLcAw [sage] 投稿日:2011/04/26(火) 00:25:01.78
趙雲だよね。
阿斗助けたから。
132 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 02:00:51.86
>>131
趙雲が助けた阿斗を地面に叩き付けた劉備
きっとこのとき打ち所が悪くて、劉禅は無気力人間になったんだろう
って事で戦犯は劉備に間違いない

>>128
蜀の地は領土的に広くても人の住める場所が限られるから
また13州の内、魏は9州強、呉は3州弱、蜀は1州
中原は群雄割拠の混乱により荒れ果てていた事を考慮すれば、
その比率はある程度納得できる値
133ジャイアニズム[] 投稿日:2011/04/26(火) 06:19:45.14
劉禅が一番悪い!
酒と女に溺れるだけの無能者。まさに糞賊ではないか!
134 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2011/04/26(火) 08:22:37.77
>>133
男も知ってそうだ
135無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 17:02:39.39
姜維は戦犯の一人なんだろうけど、
あまり責める気にはなれないんだよね。
軍事の責任者として任務をまっとうしようとしたまでだろう。
その上、外様の身で国が滅びた後まで戦い続けたんだから・・・

結局、矛先が向くのは無気力な二代目と宦官どもだな。
136 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/04/27(水) 01:02:11.17
>>135
軍事の責任者として任務をまっとうしようとしたとするにはちと功名心が強すぎる

費禕の言葉を謙虚に受け止め、機を待ち防衛に徹していたならまだしも
同僚の廖化・張翼からも諌言を受けていても北伐を止めようとしなかった
功績をあげるため、防衛を疎かにしてはね

そのため陳寿からも「多年に渡り国力を無視した北伐を敢行し、蜀の衰亡を早めた」と評される
一番の責を負うべきは無論劉禅だが、それに次ぐ責を問われるべき人物だと思うぞ姜維は
137無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/04/27(水) 08:29:28.13
一番の戦犯かと言われると分からんが、登山家が街亭でやらかさなければ長安まで落としてたかもしれない。
ぶっちゃけ第1回北伐が一番惜しかったわけだし。
138無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/04/28(木) 00:42:41.25
>>137
街亭を堅守してもせいぜい祁山周辺を落せたくらいで長安までとするのは飛躍しすぎ
たとえ勝ち進めたとしても、自力じゃ圧倒的に劣るのだから五丈原あたりで足止めくらって
食料がつきて撤退が関の山
139 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/04/28(木) 02:46:00.72
>>137
劉備の忠告を無視してまで強行したその任命責任の罪は重い
140無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 18:06:46.76
>>138
確かに馬謖が守り切れれば雍州西部と涼州は奪えただろうけど,
そこから東進して曹真や司馬懿に勝てるとは限らないな。
2方面から出撃できるとは言っても,総兵力では敵わないだろうし。
141無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 19:30:25.35
蜀滅亡の決定的な決め手は、どう考えても段谷な訳で。
要するに姜維が蜀を滅ぼした。
142 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 22:50:51.83
>>141
段谷の敗戦だけなら遠因ではあるが決定的な決め手とは至ってない
決定的なのは、
 段谷の敗戦で失った兵の穴埋めのために漢中の兵を引き抜き、漢中防衛をおろそかにした事
 そして、こんな非常な状態になって尚、北伐を続けた事
だな
段谷直後、これに懲りて防衛に徹していれば、そして政治の腐敗を一掃していれば
まだ、滅亡に向かわずに済んでいたはずだ

引かぬ、媚びぬ、省みぬの姜維が行った場当たり的な方策と
それを許可した劉禅の無策が亡国の原因なのは間違いない
143 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 16:43:27.74
よくもまあテンプレ通りのお粗末な駄文を長々と
144 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 21:07:05.90
>>140
そもそも諸葛亮の度重なる祁山への出兵の戦略目的は涼州奪取だったのかな?
涼州を取っても、その後の展開が多少有利にはなるだろうが、戦局一変とまでは
行かない気がするんだが。
145 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 21:46:38.90
蜀から前線への輸送は困難を極める
そこで前線でもある程度は自給自足ができる領地が欲しかったのかもな
なんだかんだ言っても北伐の敗因の1つが食料問題だからね

それと涼州の異民族の協力を得たいとか、まぁ馬超が死んでしまっているから
どこまで見込めるかはわからないけどね
146無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 22:34:37.79
涼州からモンゴル平原を長駆して回り込んで并州を突くとか。
騎馬民族じゃないから無理か…
147 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 22:52:27.66
でも結局祁山だの街亭だの狄道だの五丈原だのでうろうろしてただけで
涼州を取ろうというそぶりは見せなかった気がするんだけど。
148 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/02(月) 01:53:43.37
結局って言うなら祁山すら落せてないから
その先の涼州まで手も足も伸ばせてないのは仕方ないんじゃね?
占領できたのも武都・陰平までだし
149 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/02(月) 05:39:51.76
『祁山に陣を構えた』ばっかりで、そのあと何をしたかったのかさっぱり分からん
150無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 00:40:53.20
第一次北伐に関しては、祁山の先にある街亭を抑えることで北から回ってくる魏の援軍を遮断しようとしたんだろう。
陳倉攻めは、純粋に長安への道筋で一番弱いと思われたから(守備兵一千余・無名だったカク昭・一度は放棄されていた城・祁山方面の防御強化)
その後の北伐(武都、陰平、五丈原は除く)では祁山から涼州に向かって精強な涼州兵や羌族、兵糧なんかを吸収したかったんだと思う。
武都・陰平は長安から逆方向だけど魏軍の防備も弱かったし、漢中に近くて脅威になり得るから落とした。
五丈原にでたのはその地を兵站基地にして持久戦に持ち込みたかったからだろう。第五次北伐では兵糧不足は起きてなかったし、
諸葛亮の病死は不確定要素だったから、超長期戦を想定していたってことも考えられる。
151 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 05:46:17.32
涼州兵の吸収とか五丈原の基地化とか、言っちゃなんだが迂遠な戦略だよな。
弱者が相手の土俵の上で持久してどうする。結局呉の呼応頼りってことなのかな?
152無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 15:51:51.25
>>150
でも第一次で肝心の街亭に派遣したのは実戦経験のない馬謖だったり,
第四次で魏軍に大勝して優勢なはずなのに羌族への工作をしていなかったりと,
やってることが微妙にずれている気がするんだけど。

>>151
諸葛亮は自信家だから,それで勝ち続けられると思っていたのでは。
ただ後世の人の視点では,そんなにうまくいくはずがないと思われる。
だから魏延の長安奇襲策がそこそこ評価されたり,
北伐が「以攻為守」だったなんて説が出てくる訳で。
153150[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 21:54:55.90
>>152
実戦経験がないからこそ馬謖に功績を立てさせたかったんじゃないかな?
街亭戦時にはまだ姜維も降ってきてないから、その時点での諸葛亮の後継者は馬謖。
だけど、馬謖には功績がない。だから、重要かつ比較的楽な街亭守備で実績を積ませようとしたんだろう。
細い街道の守備なら、野戦指揮よりはるかに難度は下がるから。

第四次は工作する前に劉禅から撤退命令がでた……なら筋は通せるけど、こっちは証拠がないのでなんとも言えない。
154無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/04(水) 07:23:29.52
>>153
馬謖に経験を積ませたかったというのは分かるのだけど,
魏の東西連絡を遮断するという街亭の重要性を認識しているのなら,
馬謖だけでなく,ちゃんと実績ある人も出さないとだめだろう。
下弁に派遣された(実績ある)曹洪と(今後期待の)曹休みたいな形にして。

第四次の方は,魏との会戦後に工作するのはいくらなんでも遅すぎる。
だから,魏軍を破れば何とでもなると思ってするつもりがなかったのか,
工作したけど,羌族が味方してくれるだけの優勢を築けなかったのだと思う。
155無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/04(水) 16:26:38.84
張翼という人も万年サブみたいなポジションでよく分からん。キャリアで
いえば廖化あたりがもっと昇進してもいい気がするが、馬謖だの姜維だの
若造の配下になってるのはどういうもんか。
156無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/04(水) 22:49:01.82
>>154
つ王平
曹洪の例とは逆で副将だったがな

>>155
当先鋒廖化は人材不足の代名詞

張翼は益州人で孔明は荊州人優遇政策していた
蒋琬時代に征西大将軍に昇進したが、蒋琬は姜維の才能の方をより高く買っていた
157無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/04(水) 23:34:22.34
>>156
その姜維が蒋エン費イが亡くなると暴走するんだから世話はないな。
また姜維の北伐が孔明の以上に先の見込みのない不毛な戦ときた。
本当に人材不足だな蜀は。
158 : 150[sage] 投稿日:2011/05/04(水) 23:35:25.28
>>155
馬謖と廖化って、そう年齢差はないぞ。
どっちも190年前後の生まれだし、正史での廖化初登場は樊城戦の頃だ。
「次期正軍師候補だった男の弟で自身もその候補だった馬謖」と「関羽の幕僚の生き残りで丞相付き参軍の一人に過ぎなかった廖化」なら馬謖がより重視されるのは無理からぬ話。
159無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/04(水) 23:41:02.73
>>157
せめて馬良・黄権のどちらかが生き残っていて北伐で実戦指揮を経験していたらってとこかもな。
そもそもその二人がいれば街亭で馬謖に拘る必要もなく、順当に魏延が任について守りぬくんだろうけど。
160無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/05(木) 00:31:08.24
>>159
その2人が存命でも、劉備が生きていなければ魏延に出番は回ってこないように思う
主に孔明政権の挙国一致政策の都合で

また、劉備が生きていたら街亭なんて回り道せずに魏延の献策に乗っていそうな気がする
なんだかんだで劉備はばくち打ちの素養がありありだから
161 : 159[sage] 投稿日:2011/05/05(木) 00:49:45.24
>>160
あぁ、確かにそうかも。
魏延の対抗馬に馬良・黄権をあてるなら、趙雲の補佐に黄権、街亭に馬良・王平って布陣のほうが妥当か。
魏延は本隊の先鋒にしておいて、鄧芝あたりをつけて長安攻略の前線指揮をさせておけば満足するかな。
長安攻略に成功したとしても、部隊責任者はあくまで諸葛亮だしね。

蜀漢滅亡の原因って、結局は荊州失陥と夷陵の敗戦による領土・人材の枯渇に求められるからなぁ……
両方の原因を作った責任者の関羽が戦犯になるんだろうか?
162無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/05(木) 01:38:23.49
しかし呉は魏と結んでまでなぜ荊州にこだわったのかな。
そんなに関羽が目障りだったのか。
163 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/05(木) 03:07:50.86
漢中王の僭称がまずかったんじゃないか?
劉備に示し合わせて魏を攻めたら、孫呉が劉備の下風にたったと見られてしまう

また、関羽の態度も悪いな、同盟国の国主の子を犬の子呼ばわりはさすがにないわ

そして、劉備が力を蓄えるのは孫呉にとって面白くないのは確か

さらに、荊州占領は孫呉存続の生命線でもあるからな、虎視眈々と狙うだろう

合わせ技1本って感じ?
164 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/05(木) 07:11:54.67
>>156
王平は当時まだ裨将軍で,街亭で頭角を現したようなものでしょ。
馬謖と一緒に処罰された張休等もここ以外には出てこないし。

せめて陳到くらいの経験者を付けられなかったのかね。
165 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/05(木) 11:22:35.13
>>162
中原に数倍の国力を擁する勢力を敵に控えた江南政権が、長江のより上流域の
確保を志向するなんて至上命題というか当然としかいえない
荊州を保有していたのが劉備だろうと魏だろうと、そこはかわらん
後年、益州から下った王濬の艦隊がどれだけ戦局に影響を与えたかを
考えても実にわかりやすい問題
166無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/05(木) 21:58:43.40
戦犯の堂々一位は劉禅としても、二位は関羽と姜維どっち?
167無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/05(木) 23:58:56.39
>>166
姜維は劉禅と同率一位が相応しい、まぁ二位でもいいけど
そして、その次は関羽よりは劉備だと思う

劉備の失策で多くの将兵を死にいたらめた事が蜀滅亡の遠因で
関羽はその遠因の原因を作ったに過ぎない
劉備が失策しなければ蜀滅亡につながらなかったであろうことから
関羽にまで責任を求めるのはちょっと行きすぎに思う
168 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2011/05/06(金) 00:16:02.01
>>167
遠因の原因を作ったのって、けっこう責任重大だと思うんだけど……
少なくとも荊州の喪失に関しては関羽に大半の原因があるんだし
169 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/06(金) 02:12:59.58
でも遠因の人よりはましじゃね?

もし、劉備が荊州攻めをあきらめていたら
例え荊州攻め決行したとしても勝っていれば
負けたとしても人的被害が少なかったら
最悪、劉備だけでももっと延命していたら

蜀の屋台骨はもっと丈夫だったと思う
170 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/06(金) 07:44:39.04
後漢は想像以上に名声が力を持った時代なんだよね。袁術みたいなつまらない
人間が名声だけであそこまで持ったのを見ても分かる。その中で沓作りの劉備が
のし上がるのがどれほど大変だったか。中山靖王の子孫と名乗っていたが本当か
分からないし、本当だったとしてもそんな人間は後漢末期にはたくさんいた
だろう。漢書を見ると、前漢の宗室諸侯王家は断絶断絶ばかりだからね。劉氏
の血を引いているが庶民に落ちた人間は山ほどいたわけだ。
劉備が前半生で公孫サンについたり曹操についたり袁紹についたりしてるのは、
名声のない劉備はそうやって大勢力に引っ付いて生き残るしかなかったからだ。
171無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 10:56:39.06
>>146
涼州の騎馬民族を本格的に味方につけられれば魏延の長安奇襲作戦もオプションとしてなら使えるな

>>159
黄権は城の防衛戦は実績があるから街亭を黄権に守らせて魏本軍との決戦に魏延を投入できる
172 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 20:23:35.07
>>171
しかし中国史上、異民族と結んだ奴はろくな目に会ってないからな…
173 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:44:56.87
黄権は益州人
挙国一致を目論む諸葛亮にとって魏延以上に扱い難い存在

劉備が崩御しているなら李厳同様に後方に置く
前線には連れて行かないだろうと思われる

馬良は俊才として名ばかり残るが、軍師・参謀としての実績は乏しい
馬謖の変わりに用いても、成功する可能性は未知数かな~
174無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 15:50:39.33
魏延がプライドが高いせいで、誰に対しても「俺の考えと違う!」と思えばブーブー言う子なのは事実らしいし、
魏延は現場組トップだから、官僚トップから軍指揮に乗り出した諸葛亮には扱いの難しい部分があったのも事実だろう。
でも諸葛亮と魏延は別に関係悪くないよ。

魏延は一度も諸葛亮の方針に逆らってないし、諸葛亮も魏延を評価し、頼りにし、大事にしてる。
長安ルートで揉めたってのは戦術議論の範疇。
個人的には、山乗り越えて長安だけ落としても維持出来なかったと思うけどね。

諸葛亮がしくじったのは、絶望的に魏延と仲の悪い(そして諸葛亮自身も実務能力以外は評価していない)
楊儀を死後撤収の指揮役にしてしまったこと。
自分がナンバー2だという自負、そもそもの諸葛亮との方針の違い、そして、よりにもよって楊儀。
こりゃ「はぁ?楊儀がなに言ってんの?丞相が死んだら俺が指揮取るに決まってるじゃん!まだガンガン戦えるし!」
とはいえ、他のメンツはおしなべて楊儀より位低いんだよね・・・。
175無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 16:11:49.92
あと、諸葛亮が荊州閥を形成しようとした、というのも人員配置を見るとそうは思えないんだけどなあ。
例の登山家に入れ込んだのはフォローしようがないけど。まー仲良しだった兄貴が死んじゃったしさ・・・
この説も「諸葛亮と魏延が互いに険悪」と一緒で演義の印象に引きずられてるんじゃないかなーと思ったり。

演義の印象を引きずって見ると北伐に「だけ」注目しちゃいがちだし、さらに演義じゃあ、そこで目立つのが
魏延・楊儀・登山家らの荊州組や、王平・馬岱w・キョウ維の帰参組ばっかだけどさ。
でも、蜀全体でみれば要職を荊州閥で占めてた訳じゃない、つか北伐に参加してなきゃ2軍扱いという発想もヘン。
176 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 17:20:58.47
>>174
楊儀は部隊編成もしてたし正史でも魏延と並び評される存在だった(良い意味でも悪い意味でもw)

>>175
登山家は南征での助言が良かったのと議論が上手かったのと人間性が評価されてたみたい
177無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 17:54:56.16
>>175
そうか?
北伐の面々だけでなく、劉禅の周辺も孔明の息のかかった者で占められていて
益州人の高官は北伐からも中央からも外されている感は否めなくないか?
出師の表で名が挙がる人物は荊州人が多い。
諸葛亮の死後、蔣琬の治世で益州人が多く昇進してたりする。

>>176
そりゃ叛臣列伝に並び評されてちゃいるが、正史で並び評されたからといって
生前から並び評されている訳じゃないよ、魏延と楊儀では地位に隔たりがある
部長と代表取締役専務直属の課長を同列には扱えないだろ?
178 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 20:50:49.38
>>177
諸葛亮は楊儀の才幹を深く愛したが、 魏延の驍勇(ぎょうゆう)も頼みにしていて、
常々二人が不仲なのを残念に思っていたが、 どちらか一人を廃するにも忍びなかった。 (『蜀書・楊儀伝』)
179無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 21:34:03.01
>>177
益州人ってのが狭義(土着の名士・豪族)を指すなら、雍闓が反乱したりしてるから、
完全に利害調整に成功したとは言えないんだろうね。
ただ、それは諸葛亮が特別無能だった訳じゃなく、魏も呉も事情は同じ。

土着豪族・名士の多くが劉備入蜀の時に死んだり反抗して遠ざけられてるのにも留意。
それでも「さらに魏に降った」黄権の子は役人のままだし、李カイや馬忠・張翼はでかい仕事任されたりしてる。
異民族対策に回されるの左遷じゃないよ~。むしろ超重要地域への適材適所。

劉璋時代からの蜀将、という意味での「益州人」ならまったく冷遇してない。むしろめっちゃ気を使ってる。
永安勤務は左遷先じゃないよ~。超重要地点。

劉禅周辺に自分の信任出来る人を配置しようとするのも、職責上当たり前。
つか「劉備系荊州人」でそれにあたる重職は蒋エンくらいっしょ。
それを「息のかかった者で~」という言い方をするのは孔明さんカワイソス。

そして非常に大きなポイントとして、劉璋時代から荊州出身有力者の比率が多かった。
これは諸葛亮のせいじゃない。

その時点で既得権益や、朝廷外への名声が薄かった連中を北伐に連れてくのもモチベの点で正しいしょ?
180 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 22:24:46.89
>>177
「地元豪族を冷遇しない=中央の仕事に付ける、ってのが益州人の正しい扱い方」
そうしなかった孔明は派閥優遇主義者!っていうなら、それは違うぞ
呉のやりかたをイメージしてるのかもしれないけど、あれはかなり特殊だ
地元豪族には地元を運営するという仕事があるんだよ
その辺ちゃんと国家機能に組み込んだ上で「法的根拠をもった」利害対立の調整を
してくれることを望むからこそ、劉焉政府や劉備政府を結局は受け入れたわけだ
孔明が法治体勢を強化してくれたのはむしろ彼らにとっては歓迎すべき事
劉璋はそれが出来なかったから、張松なんかに嫌われた
181 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 03:04:22.42
挙国一致政策であって、派閥優遇主義とは似ているようで違うのだが?
求心力に欠ける劉禅に変わって実権を掌握して国家の分裂を防ぐ策
特に益州人に取ってみれば北伐自体が至上命題って訳じゃないから分裂すればそのまま崩壊もしかねない
そのため、益州の有力者や魏延のような武官の有力者の台頭を防ぐように苦心している
故に益州の有力者で武勲もある黄権は、魏延以上扱い難い
182 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 04:08:29.92
その扱いづらい魏延や楊儀でも使わざるを得ない程の諸葛亮体制に
仮に経験豊富な黄権さんがもし残ってたらもちろん使うに決まってるだろ。
性格的にも上の脳筋&性悪コンビよりずっとマシ。
北伐の意義も理解しつつ、いい感じに諫言込みのアドバイザーになったと予想。
183 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 07:10:05.36
むしろ荊州、益州といった出身とは関係なく,
諸葛亮自身が評価する者を優遇しただけだと思う。

>>179
南中はある意味最前線だから間違いなく抜擢だけど,
永安にいて対呉外交に関与すらさせてもらえなかった李厳は冷遇なのでは。
184無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 10:56:49.07
蜀の人事抗争というのもよく分からんな。李厳の罷免の事情も不可解だし。

益州閥のトップは呉懿かと思ったら、劉焉に従って蜀入りした人だったのね。
益州系というには微妙…。
185 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 20:31:25.31
>>184
益州出身者という意味なら,諸葛亮時代の筆頭は留府長史の張裔だな。
長史にしたいがためにわざわざ楊洪に相談して,反対されたけど強行して,
案の定問題を起こして何やってんだって奴だけど。
186無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/10(火) 00:49:53.55
張裔って張松のあんちゃんだっけ?
だとしたら、益州土着豪族+劉備の入蜀抵抗派でもちゃんと重用しまっせ!
とでもアピールしたかったのかね?
187無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2011/05/10(火) 01:33:05.67
>>186
それ、別人な。張松の兄は張粛だから。
張裔は成都出身の益州人、人格にはやや問題があったが能力は申し分なかったとのこと。
馬良・黄権が失われた後の蜀においては李厳と共に数少ない優秀な文官として重用された。
北伐時には丞相府長吏として孔明留守の成都を事実上統括、蒋エン・費イらの先輩として兵糧輸送などを担当した。
張裔の能力の高さは、第三次北伐までの各戦役で兵糧輸送を最低限滞らせなかったことからもうかがえる。
事実、彼の死後に李厳が兵糧輸送を引き継いだ途端、輸送失敗による撤退が起きている(第四次北伐)
188 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/10(火) 02:09:18.31
ちょっと穿った考え方だが

楊洪は李厳の推薦により昇進した人物
その人物が反対をしていることから張裔は益州の士大夫勢とは一線を隔していたようにも受け取れる
張裔とは張裔の子を処罰したの一件とこの一件で逆恨みされることになったから余計に

また、この抜擢の一件に加え、
張裔は一時呉に囚われていて、鄧芝が呉との講和に成功したとき帰還できた
その事から孔明の一派には多少なりとも恩を感じていた可能性も?

どの道、孔明の挙国一致政策を妨げる(られる)ような人物ではなさそうではある
189 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/10(火) 02:25:36.91
李厳とか許靖とかは既にあった名声と能力・人格が見合ってなかったから
扱いに苦労したっつーだけだろ

使える人は使う、ダメな奴は使わない
でも虚名であれ名声のある奴はおろそかには出来ない
その辺でいろいろ苦労したんでしょ、孔明さんも

つか普通に頭のまわる奴なら挙国一致体制でないと、田舎少国家じゃー
立ちゆかないこと位解ってるだろーしな
つまり生姜さんは頭が(ry

そこを根拠にして孔明閥を妄想する事自体が、穿った見方なんじゃねーの?
190無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/10(火) 03:47:30.96
挙国一致政策であって、派閥優遇主義とは似ているようで違うといってるのに
孔明閥とかって、いったい誰と戦ってんだ?

挙国一致体制でないとって、わからねーバカはいつの時代もいますから
また、その先導が諸葛亮である必要もないと考える者だって出てくるだろう
諸葛亮に匹敵する名声を得るものが現れれば分裂の可能性は低くない
あくまで諸葛亮はナンバー2なのだから
名声を得た者本人にその気がなくとも周りがほっておかないことも考え難くない
だからこそ、諸葛亮は政敵になりうる存在を作らないように苦心しているんだろって
191無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2011/05/10(火) 03:59:46.59
北方(禁止ワードか?)の影響を受けてるおれには、
ホウ統さえ生きてればな、って思うけど。
たぶん北方サンもそういう考えが根本にあるよね。
192 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/10(火) 04:40:15.96
>>191
というか羅貫中さんが既にそういう仕様で書いてるよね
193忍法帖【Lv=11,xxxPT】[sage] 投稿日:2011/05/10(火) 06:02:31.73
>>187
> 人格にはやや問題があったが能力は申し分なかった

蜀ってそんな奴ばっかりだな。堂々たる士大夫が子供みたいな喧嘩したり
ある意味リアルというか、日本の田舎の村でもありそうな話だ。
村長さんの孔明はさぞかし苦労したろうな。蜀村を率いて呉町や魏市と
渡り合わなきゃいけなかったんだから。
194 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/10(火) 06:12:21.55
四川麻婆豆腐の例もあるし
やっぱり辛いものを常食してる人種ってどこかおかしいんだな
195無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/10(火) 06:44:11.41
>>190
簒奪のお墨付きまで貰って全権を掌握している諸葛亮が,
自身の権力は手放さないままで政敵となりうる存在を作らないようにするって,
それは挙国一致政策ではなくて諸葛亮独裁体制と言うべきでは?
196無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/10(火) 06:54:04.40
>>193
>蜀ってそんな奴ばっかりだな。堂々たる士大夫が子供みたいな喧嘩したり

史伝読んでると、蜀に限らず魏呉でもそんなんばっか
197 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/10(火) 08:24:51.49
>>195
そりゃ丞相な訳だしある意味独裁で当たり前
んで「ワシの考える挙国一致」で政策を進めるのも当たり前
んで「ワシの考える有能な子」で固めようとするのも当たり前

封建制度下ではあたりまえだし、そういう体制下で生まれがちな弊害を
可能な限り上手く処理したからこそ、孔明さんは激賞されてるのでは?
198無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 02:34:00.16
>>195
独自の裁量で政治、軍事を委ねられるという意味で用いているのであればその通りだが
独裁とはひとりの実力者が独断的に一切の事を運ぶ様子で悪い意味で使われる
そのためこのケースでは適切とは言いがたい。

>>197
本来であれば皇帝が上にいるからほとんどの丞相が独裁には当たらないぞ
皇帝が幼少でもない限り、全権を担うなんて事はない。
そもそも、一家臣が政治も軍事も担っていたら簒奪リーチな状態でまともであるはずがない
そんな状況で簒奪を疑われなかった孔明は稀有な存在といえる。
199無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 03:16:52.98
>>196
それでもほかの国の叛臣列伝は、反乱や謀反まがいのことをした人物だけだが
蜀は、嫁さんに暴行働いただの暴言を吐きまくっただの、とてもとても小物が多い

そして蜀は公私の区別がついてない人材も多い
これが魏だと互いにきらい合う同僚であっても、有事の際は協力している
200 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2011/05/11(水) 03:17:59.27
>そんな状況で簒奪を疑われなかった孔明は稀有な存在といえる。

李厳がブルペンで投球練習を始めたようです
201 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 03:24:55.69
>>199
劉タソは普通に認知症だろ、アレ
202 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 07:12:44.81
>>198
諸葛亮伝や華陽國志では,諸葛亮が全てを決定したと明記されている。
逆に,一緒に後を託された李厳は,その後の政策決定に全く関与させてもらっていない。
統治内容の良し悪しは別として,体制としては明らかに挙国一致ではなく独裁だろ。

諸葛亮には否定的な言葉を使ってはいけないなんてことはないだろう。
203 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 07:27:49.52
諸葛亮体制は独裁=挙国一致が成立した稀有な例ってことでいいんじゃねーのー?
あれだけの権限を手に入れながら、それについてほぼ不満が出ることがなく
簒奪フラグをへし折りまくり、権力に溺れることもなかったわけで
204無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 08:51:56.16
>>190
>だからこそ、諸葛亮は政敵になりうる存在を作らないように苦心しているんだろって

政敵を作らないようにする=政敵になりそうな人を政権から排除する
っていう発想が>>181>>188の挙国一致さんの発言から見て取れるんだけどもさ

むしろ逆で
政敵を作らないようにする=他の人の地位にものっそい気を使う、ってのが孔明のやり方じゃないの?
集団代表者格だと、ちょっとアレなの分かってもそれなりの地位を与えちゃう。
周り中から「だめだこいつ、はやく(ry」って思われてる人でも罷免・降格させる時にも気を使いまくり。

行政最高責任者としてどっちがいいのかはわからんけどもさ。
でも、だから独裁状態でもあんまり不満が出ず、罷免された人でもその本人が
「それでも孔明さんなら・・・孔明さんなら、きっとなんとかしてくれる・・・」って思うんでしょ。
205 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 14:43:22.33
ていうか戦犯論議はどうしたんだよ
206 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 15:47:13.96
戦犯論議は関羽だ姜維だやっぱり劉禅だで終わってしまうから、一歩進んで
「蜀の権力構造の解明」に行ってるわけで、さほどスレ違いでもないと思う。
207無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 15:54:41.49
・蜀滅亡の戦犯は誰か     ↓
・孔明の対魏戦略構想は
   ↓
・蜀の権力構造とは←今ここ
208 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 16:53:46.24
理解できんからキャラゲーのノリで語ってくれって素直に言えばいいのに
209 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 17:32:56.91
>>204
>周り中から「だめだこいつ、はやく(ry」って思われてる人でも罷免・降格させる時にも気を使いまくり。

上で名前の出てる痴呆老人の劉タン?エン?とかだと孔明の処分が手ぬるすぎて、
あの劉禅がキレてるもんな
劉備放浪時代組なんぞ、もう他にいないよね?なんであんなに気ぃつかってんだろ
210 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 17:41:40.44
>>207
姜維の北伐の客観的な評価のためにも、孔明の戦略構想の解明は必要だな。
211無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 17:50:22.50
姜維の北伐は個人的功名心+ぼっちすぎて屈折の合わせ技一本
敵撃破しますた!って言いたかったんです以上の意味を見つけるのが難しい

・・・でFAではないの?

まだ孔明が「ホントのとこ、北伐することでどうしたかったのか」のほーが
議論の余地が残ってるよーな気がするんだけど
212 : 無名武将@お腹せっぷく[ ] 投稿日:2011/05/11(水) 22:27:02.41
まあ登山家だろ
213 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/11(水) 22:30:41.68
登山家の場合、登山家を起用した監督が悪いという話になるわけで
214無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/12(木) 15:10:17.87
>>211
姜維は実は魏ではいじめられっこで私怨があった。
だから北伐で躍起になって繰り返し攻めたし、蜀が滅亡しても魏には降らなかった説を提唱する
215 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/12(木) 19:17:00.11


>>196
なんせ中国人ですから


216 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/12(木) 19:21:11.45
>>214
天水の姜氏は地元の名族だから,逆にいじめていた側なのでは。
(実際に薛夏が姜氏らにいじめられていたという記録があるし。)
217 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/12(木) 20:21:07.60
結局は劉備が戦犯なんだろうな
劉禅をまともに育てないで、諸葛亮に全権託し死ぬし
こんな奴が漢王朝復権とは笑わせる
218 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/12(木) 23:45:45.46
この時代って男親が子を育成するもんかいな?
劉備の場合、劉禅の養育以前に夷陵の戦いの方が致命的

それに劉備にとって漢王朝復権は建て前で、
本音は殺されないため立ち回っていたらあれよあれよと皇帝になってました。だから
219 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 04:58:57.38
皇帝になったのも、
漢が無くなった以上地元豪族や配下に「公認」マークを出せる機関をつくらにゃならん
・・・ってのが大きそうだよね

蜀将の間じゃ「ワシ、漢の武将」ってのがそれなりにモチベになってたっぽいし
220 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 13:52:43.58
四川の田舎じゃ漢ブランドがまだ有効だったのかね。
中原じゃとっくに過去の遺物っぽいが。
221 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 14:15:36.24
漢云々は泊付けだろーけど、曲がりなりにも「皇帝の部下」と
「皇帝と敵対してる一武将の部下」じゃあだいぶ気持ちの違うでしょ
222 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 19:07:52.03
曲がりなりにも劉焉は漢朝から正式に任命された州牧だし、
黄巾だ董卓だ官渡だと大騒ぎの中原と違って益州はさほど
荒れてなかったから、漢朝オワタ感も強くなかったのかな。
223 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 20:44:07.41
マジレスすると諸葛亮孔明。
勝ち目など無いのに無謀な北伐を繰り返し、民を苦しめ、蜀の寿命を縮めてしまった。
おまけに後継者を洗脳し、死後まで無謀な戦を続けさせる異常な執着。
こいつは分相応という言葉すら知らない身の程知らずの大奸賊。


↓以下基地外諸葛亮信者の見苦しい言い訳
224 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 20:56:40.08
馬鹿の一つ覚えのレス乞食
225無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 00:10:39.50
>おまけに後継者を洗脳し、死後まで無謀な戦を続けさせる異常な執着。

いつ蒋琬が死後まで無謀な戦いを・・・って、死後まで?
226 : 【東電 61.5 %】[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 06:22:21.11
孔明信者などこのスレにいるのかね
「何をしたかったのか分からない人」だよこのスレでは
227 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 15:33:12.13
>>225
おまけに後継者を洗脳し、(孔明自身の)死後まで無謀な戦を続けさせる異常な執着。

読み取り難い書き方だけど、孔明主体に書かれた内容だからちょっと考えれば読み取れないほどでもないと思うよ
まぁ、解っているがわざと誤読して揚げ足取りたかったんだろうと思うけど
228無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 15:42:31.15
ただ、引きこもってても押しつぶされるだけだったからね
攻勢に出ることで相手を牽制、あわよくば領土を拡大しないことには…
隴西を得らられれば緩衝地帯を作れるし

でもいずれ押し潰されることを承知の上で引きこもるのが正しかったのか?

229 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 17:15:22.35
あの辺って領土化しても即国力増強につなげるのは難しいとこだよね?

それでも、戦線を押上げつつなんとか維持
プレッシャー掛かった北西方面が不安定化すれば尚よし
ついでに国家としての理念(と、諸将のモチベーション)も維持

呉との協調が維持出来れば、魏も対蜀に全力投球は難しい
チャンスがあれば呉にも南東方面から前線を押し上げてもらう
そのうち魏の内部で変事でも起これば、それにつけこんで分断を狙う

って感じのつもりだったのかなあ
着地点を見て、というよりは、やっぱ黙って押し潰されるよりは、
なんとかチャンスを作ろうって感じだったんじゃない?
230 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 17:29:09.05
仮に涼州を取ったとしても維持可能だったのかな。益州との交通を考えると孤立の
危険が大。やはり関中盆地を制圧して函谷関を防衛線にしないと守れない気がする…
231 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 17:48:39.27
四川盆地は山を超えられると無防備だからね
国力増強というより僅かでも国境ラインを押し上げたかったんじゃないかな
232無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 19:15:03.45
>>228
> でもいずれ押し潰されることを承知の上で引きこもるのが正しかったのか?
押しつぶされるのを前提として語っているが、必ずしも押しつぶされるとは限らんから
小国であっても内憂がなければそうそう滅ぶことはない
現に蜀も、国家の疲弊と内部の腐敗がなければ万全の防衛で迎撃できている

強大な国家とて磐石ではないし、いつまでも一枚岩でいられるものでもない
外敵が脅威でなくなれば、内部分裂を起こすのが常
また、敵対心を見せなければ、国家事業として小国の相手に戦端はなかなか開けないもの

三国時代の場合を見れば、魏は呉を重視していて蜀はほとんど警戒していなかった
魏による蜀への侵攻は、孔明・伯約の北伐に対する反撃的な様相もあり
北伐を繰り返したことによる国家の疲弊、内部の腐敗などを見て取ってともいえる

即ちやぶへび

とは言うものの、これは後世から見ての考え
当時の蜀の指導者からすれば魏国の侵攻に対して不安を覚えるのも当然
何らかの対策を打っていなければ魏より先に内部腐敗を招きかねない
その手立てが北伐と云う考え方もできる

北伐の是非は、後世の人が簡単にどうこう言ってよいものでもないな
233 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 20:25:31.32
無駄に長いから縦書きだってことはわかる
234 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 21:29:06.23
カッコイイこと言ったつもりの最後の一行で、自分の書き込みを全否定・・・
235 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/15(日) 12:27:12.50
>>232
当時の士大夫のモラルって「後世に悪名を残さない」じゃないの?
中国の場合、子孫が後ろ指さされるという具体的な弊害もあるし。
ヘマしたら後世の人に叩かれるのは当然というか、政治の前提では。
236【東電 58.3 %】[sage] 投稿日:2011/05/17(火) 08:15:34.22
蜀漢は本当に人材がいないな。
滅亡の時も出てくる武将は廖化だ張翼だとジジイばかり。
237 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2011/05/17(火) 22:28:55.76
>>236
若手の武将たちは夷陵で壊滅したからね
238 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2011/05/17(火) 23:44:38.55
だったら劉備だな
239 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/18(水) 00:04:24.22
若い奴は魏呉へ逃亡・・・
240無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/18(水) 06:32:06.08
若手武将って張南とか焦触とかか?
241 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/18(水) 20:50:53.95
>>240
そのふたりは袁氏の人物じゃないか?
尤も張南の方は蜀にもいたけど
242無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/18(水) 21:26:45.73
半日経っても誰もつっこんでくれないから自分で回収しに来たようにも見えますね
243無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/18(水) 21:45:06.19
間違えた。えーと、張南と馮習だっけ?
>>242
何でも自演に見えるようになったら要治療だよ
244無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2011/05/18(水) 22:11:44.65
>>243
夷陵の戦死者なら馬良、馮習、張南、傅?、程畿、沙摩柯あたりか。
あと、黄権が魏に降伏。
名目が関羽の仇討だけに従軍したのは、反対派だった趙雲や諸葛亮、北方の押さえを張っていた魏延・馬超以外の
ベストメンバー(武陵蛮の沙摩柯はともかく)とも考えられる。
次代の主力と見込まれていたメンツを揃えていただけに、敗戦で人材層が壊滅状態になったんじゃないだろうか。
245244[] 投稿日:2011/05/18(水) 23:30:41.71
・・・あ、このあたりのメンツって廖化と同世代かそれ以上の奴らか。
よく考えたら北伐期の人材不足は解消されても、滅亡時の高齢化は変わらんな。
案外、姜維の北伐で有望な若手兵卒が次々とすりつぶされていって将まで育たなかったってのが妥当かも。
246 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 00:58:10.34
>>244
夷陵の敗戦の人材的な影響としては
親の基盤を受け継ぐ二世武将が他の二国よりも少なくなってしまったことかな
247 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 01:13:16.28
孔明の死後、姜維の台頭まで約20年近く大きな戦役がなかったから
若手が功績を挙げる場も頭角を現せる場も少なかったであろう

また、姜維の台頭から蜀滅亡までの約10年間は、
本来であれば姜維らが人材を発掘、育成する立場のはず。
だが、姜維は自らが功績を挙げることに躍起になっていて、失敗を繰り返しているから
人材も見つかりようがない罠
姜維自身、益州人の人脈が乏しそうである事もマイナス材料だろう
248 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 01:15:49.02
訂正
誤 大きな戦役がなかったから
正 大きな戦役が少なかったから
249無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 06:03:20.19
>>245
そこらへんの武将って、調べたらみんな荊州南郡とかの出身だな。
結局益州に人材はいないのかよ!
250 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 07:18:17.93
>>249
荊州奪回が主目的だから地元人中心にした可能性はあるけど,
劉備が益州を支配してから東征まで約7年しかないから,
中央軍の隊長クラスに抜擢された益州人はまだ少なかったのではないかと。
隊長未満だったら名前も残らないだろうし。

異論もあるけど,蜀は最後まで益州外の者が主導権を握り続けたようだから。
251無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 10:35:19.63
馮習の死は痛すぎる
趙雲クラスの武将なのに…
252 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 11:18:11.49
夷陵の敗戦は馮習にも責任有りという話も
253 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 20:51:03.47
>>251
正直馮習が趙雲クラスの名将だったというよりは,
趙雲にたまたま劉禅を保護したという大功があるだけで,
実は馮習クラスの良将に過ぎなかったのではないかという気がする。
254無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 21:26:19.37
なら劉備の「子龍は一身全てこれ胆なり」ってのは過大評価?
255 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 21:56:15.26
>>249
ジモティーはもう地元で立場も利益あるんだから、わざわざ外征に付き合って功績作りしなくてもいいからじゃね?
むしろ珍しい位バリバリの地元豪族なのに付き合っちゃう黄権が異色なのかもしれんよ。

>>254
基本地味というか地道な趙雲の経歴なのに、活躍してる場面が異常にキラキラしてるのは、その場面だけ趙家の家伝書丸写し説なんじゃね?
・・・って説が昔からあるみたいだよ。
もちろん劉備にも諸葛亮にもすげー信任されてたけど、不思議なくらい身分は上がってないしね。
魏延が最後にミソつけなければ、蜀漢の五大将は確実に関張馬黄で伝が作られてたのは間違いない。
256無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 22:19:23.47
しかしあれだけ荊州出身者を優遇したら地元から反発が起きそうな気がするが、
起きてないのはなぜだろう。それだけ地元の力が弱いのか?そういや益州の
名家名族とか聞いたことないな。
257 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 23:33:49.02
趙雲は指揮官としてはともかく、武芸者としてはトップクラスだったんだろうな
258 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 23:39:51.05
大物だと李恢・黄権あたりがじゃね?
許靖・呉懿・李厳・劉巴なんかの劉璋時代からのビッグネームでさえ他の地方出身だもんなー
259 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/20(金) 01:45:37.28
>>254
肝っ玉がでかいって事と名将だって事はイコールって訳じゃないって事だから
260 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/20(金) 11:06:44.95
劉備はガキを置き去りにするは妻たちに尽くさないは
最悪だからな、蜀はその時点でオワコン
261 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/20(金) 15:09:30.74
ガキ置き去りの元祖劉邦さんディスってんのかゴルァ
262 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/20(金) 21:10:02.36
単にオワコンって言いたかっただけのガキを相手にせんでもええ
263 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/20(金) 21:54:19.64
人徳が売り物の劉備も実は劉邦なみのカス野郎…
264無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/20(金) 22:29:37.85
現代日本の倫理感で過去の異国の人物の倫理感を語られましても…
265 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/20(金) 23:36:13.69
ジジイはオワコン劉備が好きなの?
266244[] 投稿日:2011/05/20(金) 23:50:47.55
>>256
>>258
劉焉自身が荊州出身だし、益州軍の主力は荊州から逃れてきた東州兵だったからね。
その頃から中枢には李厳や劉巴みたいな荊州人や法正、孟達のような涼州人も入ってたから、
両州の人材を登用するのはそう間違ったことじゃない。
地元民からの反発なら張松が起こしてるじゃないか、劉備を引き込むっていう。
東州兵は益州の治安を乱してたっていうし、それを取り除いて民心を掌握した劉備軍に反逆が少なかっんじゃないだろうか。
267無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/21(土) 01:40:50.35
>>266
ほとんど記録に残ってないだけで劉備は大粛清してたっぽいことが註釈から伺えるしな
268無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/21(土) 06:08:00.52
>>264
だが劉邦はカス野郎という表現に違和感ないよな
269無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/21(土) 10:13:44.77
>>267
くわしく
270 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/21(土) 18:35:38.30
>>268
会った訳でもない、よく知りもしない人の事をカス野郎呼ばわりする人の性根を疑う
271 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/21(土) 19:03:17.60
近所のおじさんかよ劉邦さんはww
272 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/21(土) 19:31:15.25
>>269
たぶん返事こないよ
273無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/21(土) 22:50:54.53
長坂で家族を置き去りにして自分だけ光の速さで逃亡した劉備はカスだな

嫁や娘たちは全員レイプされた奴隷としてで売られていったに違いない
274 : 244[] 投稿日:2011/05/21(土) 23:30:01.38
>>273
娘はともかく、嫁(甘夫人)は趙雲が救出してるな。
麋夫人にいたっては長阪での記述はなし、没年すらわかってない。
275 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 01:50:25.72
>>273
それを人徳とかふざけてるよね、統率もバラバラだし
276 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 04:56:38.23
大丈夫!ご先祖様の劉邦さんが既にカスだから!
劉備さんとか大したことないよ!
277 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 07:50:42.43
>>273,>>274
そういえば娘2人は曹純に捕まっているな。
董承の件に連座して処刑されたか,
兵戸の妻にされたかのどちらかだろう。

逆に言えば曹操側の戦果に見えないから,嫁は捕まっていないのだろう。
麋夫人は,徐州で曹操を裏切って敗れたときに捕まったのでは。
278無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 23:12:53.74
>>269
詳しくは無理

単に劉曄伝註釈の傳子に
曹操に聞かれて劉曄が劉備が粛清しまくってるのでもう蜀は落とせないと答える
という逸話が残ってる

傳子は史書としちゃ全く信憑性がないとは言わないまでも結構眉唾物とされてるが
少なくとも「劉備が人心を収めるために粛清しまくってた」というのは
当時説得力を持って居た言説ということになる
279 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 23:38:07.67
劉備って典型的なイエスマンだけで周りを固めるタイプだし、
粛清はしてるだろうな、多かれ少なかれ
280無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 00:12:17.43
>>278>>279の「粛清」の意味が全然ちがくないか
281 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 00:20:34.64
唯我独尊の関羽はそれで、荊州に…
劉備さん、曹操に負けず劣らずの奸知を発揮しとるな。
282 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 03:46:27.88
粛清(しゅくせい)
1.厳しく取り締まって、不純・不正なものを除き、整え清めること
2.不正や反対者を厳しく取り締まること
3.政治的に、組織の一体性・純粋性を保つため、組織内から異分子人物・勢力を排除すること

>>280
あまり変わらないと思う
どちらも3.番の意味合いが強い
283 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 04:52:57.21
多分>>280の頭の中では特定の個人に対する排除としての粛清と
刑罰による一般的な粛清の差があるんだと思う
284 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 06:00:46.58
現代の人間が粛清と聞いてイメージするのはスターリン
285無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 08:22:38.23
>>278
裴松之「とりあえず全部載せときますんで、あとはよろしくね(はぁと」
286 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 12:23:43.72
>>285
いやあのおっさん自分の好みで色々付け足してるだけで
全部公平に乗っけてるわけじゃない
287 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 15:57:22.78
呂伯奢の件について、これでもかといろんな説を載せてるのは裴松之の趣味だったのか
288 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 20:48:29.58
>>278
曹操が漢中を平定した時って,劉備は荊州にいただろ。
それが原因で荊州再分割で手打ちしたのだから。

まあ代わりに諸葛亮が殺しまくっていた可能性はあるが。
289 : 忍法帖【Lv=18,xxxPT】[sage] 投稿日:2011/05/24(火) 06:21:04.20
三国鼎立で国力も人材も一番弱い蜀が勝ち残るとすれば魏の内部崩壊待ちだった
わけだが、結局自分が先に内部崩壊してしまいましたとさ。めでたしめでたし。
290 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/24(火) 13:11:19.00
内部崩壊なんかしてないけどな

蜀の崩壊は経済的事由
291 : 忍法帖【Lv=18,xxxPT】[sage] 投稿日:2011/05/24(火) 19:32:10.37
荊州系人材が死に絶えた途端に蜀あぼーん
やっぱり荊州失って益州だけじゃダメだったんだよ!
292無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 16:01:10.84
費イの次の丞相って誰だっけ
293 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 18:17:03.18
>>292
蜀では諸葛亮以外に丞相に就いたものはいない。
蒋エン・費イは大将軍録尚書事として政務と軍務を統括してた。
費イの死後この職に就いたのは姜維(ただし衛将軍、256年以降大将軍)だけど、
彼は漢中にいることが多かったから宮中での政務は鎮軍将軍尚書令の陳祇が担当した。
294 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 19:23:09.14
なるほど、だから「蜀相」というとイコール孔明なのか
295無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/25(水) 22:25:18.90
諸葛瞻てどうなんだ。大した人物じゃなかったの?黄皓とつるんでたらしいし。
296 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/26(木) 00:32:26.72
>>295
並程度だったんじゃないかなぁ……
比べるのも酷だけど、姜維・トウ艾どころか三国時代全盛期の中堅武将にすら及ばないだろう。
事実、黄権の子から指揮を批判されまくったあげく彼からの出陣要請も蹴って傍観してたわけだし。
禁軍という精鋭がいるべき首都にそんな人物しか残っていなかった辺り、北部戦線は本当に人材が
底をついてたんだな(西はまだマシだったようだが)。
あ、一応黄皓と繋がりはあったみたいだけど、姜維の黄皓排斥運動には同調してた。
297 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/26(木) 13:39:11.74
ショウ会は人物としてどうなんだ。反乱を起こして蜀で自立できると本気で
思ってたのか?ショウ会とか賈充とかアレな人物が多いよな魏も。
298 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/26(木) 14:39:50.99
黄スウは萌えるな
ポジション的な意味で
299無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/27(金) 09:12:14.03
蜀末期の内政は諸葛瞻、董厥、樊建の微妙トリオか。
300 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/28(土) 00:25:16.74
>>299
そのトリオの中に黄皓が食い込んできてカルテットになってしまうのが蜀の悲劇だな
301無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/28(土) 05:56:45.75
というか君主劉禅が黄皓の言うことしか聞かないんだから、黄皓を引き入れないと
蜀の国政が回らない状態だったんだろうな。まあ皇帝が晩年になって政治に飽きて
道楽に走るのはよくある話だが。唐の玄宗とか。
302 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/28(土) 07:41:01.23
>>301
劉禅は飽きるほど政治をやっていないと思う。
303 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/28(土) 08:04:05.41
ちょっぴりやってすぐ飽きたんだよアホだから
304無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/29(日) 15:34:06.07
黄皓を排除できなかったのか?十常侍排除みたいに大騒ぎになっちゃうのか?
姜維が何進みたいにぶっ殺されちゃうのか?
305 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/29(日) 16:54:26.32
>>304
何進は何太后の反対で決行できないうちに返り討ちにあった。
成都にすらいない姜維が劉禅自ら擁護する黄皓を排除できたとは思えないな。
306 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/29(日) 19:59:36.14
劉永が黄皓を遠ざけるよう諌言して出仕停止喰らってるしなあ。
劉永の方が兄貴より小マシな人物だったんかいな。
307 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/29(日) 20:07:38.84
後漢といえば宦官と外戚の抗争だが、蜀漢の外戚って張苞、張紹か。
いずれも史実だと大した人物じゃなかったようだな。
308 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/29(日) 23:43:34.39
正史をキチンと読んでいれば、張飛の跡を次男の張紹が継いでいることが解り
その時点で長男の張苞は死んでいる事が推測できる
即ち張苞は外戚と呼ばれる立場にある以前に死亡していることを知る
309 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/30(月) 09:11:17.65
>>304
後漢は光武帝中興以来百数十年を経て、組織がガチガチに硬直化していたからな。
どちらにしろ帝政をとる以上、皇帝の気分次第というのは溥儀まで変わらないんだが。
310 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/30(月) 20:15:34.54
蜀の場合皇帝の劉禅が諸葛亮とその一派に抑えられていた感があるのだが。
(だから蒋琬や董允が死んだ後でようやく劉禅が国事を取るようになったと言われるわけで。)
それを脱しようとして宦官に頼ったという意味では後漢と同じだと思う。
311無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/31(火) 16:38:48.28
官僚でも政治家でもない、皇帝一家の使用人にすぎない宦官が
なぜあんなに権力を振るったんだろう。
312 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/05/31(火) 17:01:36.12
>>311
費イや董允の後任にあたる陳祇と組んでたみたいだよ。
陳祇の死後に就いた中常侍は皇帝への取次ぎ役だかから、黄皓を通さないと奏上が通らなくなったんだろ。
313無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/05(日) 05:41:47.60
魏延謀叛の件もよく分からん。楊儀がその後間もなく「不平を言った」とかいう
微妙な理由で追放されてるところを見ると、蜀中枢に魏延支持派もいたんだろうか。
李厳解任の件も、本当にあんな子供騙しの猿芝居を李厳がやったんだろうか。
蜀は分からんことばかりだ。
314無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/05(日) 07:37:24.24
>>313
魏延の場合,軍内の大勢に逆らってケンカ売って負けたから謀反扱い。
楊儀が諸葛亮の後継者になれずにグレたのはまた別の話。

李厳の場合,補給に失敗して部下に責任転嫁したまでは理解できるけど,
よりによって諸葛亮に転嫁しよとしたのはまず信用できない。
諸葛亮にケンカ売って勝てるわけないし,李厳がそれを知らないはずがないから。
315無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/05(日) 10:19:52.35
>>314
李厳はやっぱり孔明にハメコミ喰らったの?
316 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/05(日) 23:41:07.62
>>315
政争で国を割りたくなかったんだろうな
国家としての基盤が脆弱なゆえの悲劇かも
317 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 05:49:44.64
劉備の遺言に従って孔明が纂奪していたらどうなった?諸葛瞻が微妙か?
318 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 05:54:59.36
遺言に従うなら劉禅は皇帝に足る器だったので簒奪はありえない
319 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 06:56:08.90
漢を継ぐと称して季漢を建国してからせいぜい10年程度,
しかも賊である魏にそれほど大きなダメージを与えていない現状では,
いくら諸葛亮に知恵があっても漢の大義を覆す名分は出せないのでは。
320 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 09:52:18.86
玄徳にも予感があったんじゃないの?劉禅を見て「このガキ駄目かも…」というのが。
321 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 17:23:42.71
劉備の血筋に愛着持ってるのは関羽張飛とか古株だけなんだから
連中が死んだ後で纂奪しちゃえばよかったんだよ。
322 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 17:30:30.75
考えてみれば徐州時代までの家来って結構少ないかもな。縻竺、簡雍とか。
323無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/09(木) 02:35:51.94
>>315
歴史資料を信じるなら、完全に李厳がボケてた
諸葛亮は例によって気い使いまくり&根回ししまくりようやく解任に成功

>>321
じゃあだれの血筋なら愛着もってくれるの?という
一応にしても漢室公認の劉姓ってのは、田舎国家だからこそ頼りたくなる看板だったはず

>>322
諸葛亮時代の一番の大物は、演義に出ないんでマイナーだけど劉タンかな
古株なんで出世して、魏延よりも格上つか位の上では諸葛亮に次ぐ軍事No.2だったはず
ただし、人格的にも能力的にもろくでもない人物だったっぽい
スリッパDV事件含め、演義で抹消したくなるのが頷けるレベル
324 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/09(木) 06:07:23.10
>>323
李厳がボケていなければ成立しないくらい変な流れだから疑っているのだが。
李厳が署府事となったのは前年で,輸送を担当したのはこの年になってから。
ボケてた奴に重要任務を任せたとしたら諸葛亮の責任問題になる。
でも諸葛亮は馬謖の時とは違って,自身は全く責任を取っていない。
325無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/09(木) 06:14:17.89
>>323
確かに息子の李福が跡を継いだところを見ると、日本で言うと殿様ご乱心で
座敷牢入りの強制隠居で若殿が跡目を継ぐみたいなもんか。
326 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/09(木) 06:23:28.60
つまり犯罪扱いなら息子李福も連座で後継にはなれないと。
『ご乱心』扱いだったということか。まあ孔明の配慮かも知れないが。
327 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/10(金) 07:20:17.69
>>325,>>326
李福のことを言っているのか李豊のことを言っているのか分からないけど,
李福は李厳が流された梓潼の出身だから,南陽出身の李厳の一族ではない。

というかご乱心として扱ったのなら,蒋エンみたいに病気名目で引かせればいい。
なぜ弾劾文や免職する上奏文などがわざわざ残っているのかと。
328無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/10(金) 09:49:45.05
親父が犯罪犯して免職されたのなら、息子の李豊が職務を継ぐのは連座制が
当たり前の中国では確かに不思議だね。処罰とまで行かなくても、李豊も
免官、謹慎ぐらいにはなりそうだけど。
329 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/11(土) 03:29:57.88
麋芳や黄権のことも合わせて考えると

外向)美談仕立て
実情)単なる人材不足

というのを思いつきで提唱してみる
だからこそ登山家の事もあれだけ騒ぎになったのでは
いや、思いつきなんですけどね
330無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/11(土) 07:28:44.12
>>328
華陽國志だと「奪平子豐兵,以為從事中郎,與長史蔣琬共知居府事。」だから,
一応左遷されたという扱いだったのでは。

>>329
蜀の人材不足はガチだからあり得なくはないけど,
それだと公正、信賞必罰といった諸葛亮のイメージが崩壊するのでは。
(既に李厳が死刑を流罪に減刑してもらったという扱いではあるけど。)
331無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/11(土) 08:49:51.89
>>330
> 信賞必罰
登山家の時に大量処分し過ぎたんじゃね?
登山家本人のみならず配下の多数が巻き添え喰らったらしいじゃないか。
332 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/11(土) 10:10:07.30
登山家は最も重い逃亡罪だから
333 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 07:05:25.95
>>331
別に処分者を絞ったことをどうこう言うつもりはないけど,
実際に処分した李厳本人に関して「美談」を仕立てる必要はないのでは。

あと逃亡したとされる馬謖ですら連座は適用されていないのだから,
文書上ではいろんな所業をあわせて罷免された李厳に連座は適用されないのでは。
334無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 07:50:05.07
門閥社会では親が偉けりゃ子も出世するんだから、その代償として連座制度があるわけだな。
しかし名門氏族は人材の供給源でもあるわけだが、蜀の名門とか聞いたことがないなぁ。
だから人材がいなかったのかな。
335無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 10:38:29.22
>>334
名門というか、本来そういった中核をなすべき人材が夷陵でほぼ全滅したのが痛い
早世した人物も多いし
336 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 19:01:58.27
>>335
夷陵がどうというより、人材の地元供給ができなかったのがな。
結局荊州系の人材が死に絶えると蜀滅亡だったから。
337 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/13(月) 02:59:22.45
>結局荊州系の人材が死に絶えると蜀滅亡だったから。





廖化<ここにいるぞ!
338 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/13(月) 06:48:47.06
>>334
「蜀では名門」ってだけなら結構いたけどね。
中原人から見れば蜀出身って時点で2流、3流の扱いだから。
339 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/13(月) 15:03:23.00
劉エン時代に外部の有力者、許靖・呉イ・李厳・劉巴とかが入って政府作ってその時点で地元色かなり薄まって、
さらに劉備入蜀のごたごたで張松・王ルイとかの有力地モティ死亡
蜀漢成立時点でもー黄権くらいしか政権運営に関われる地元有力者いなかったんでねーの
340 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/13(月) 17:52:52.75
楊洪や張裔あたりは益州人だな
341 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/16(木) 23:27:49.31
天下取りに出遅れてショボい益州しか取れなかった劉備が戦犯!
342 : 無名武将@お腹せっぷく[age] 投稿日:2011/06/20(月) 05:58:49.42
保守上げ
343 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2011/06/20(月) 08:25:07.89
>>1
孔明
344無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 02:38:05.48
>>334
>名門というか、本来そういった中核をなすべき人材が夷陵でほぼ全滅したのが痛い
そんな事実はないだろう
345 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 10:16:23.70
>>344
そういう役割を担う、荊州時代からの譜代家臣のことでしょう
346 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 18:52:57.62
馬良のことですか?
347無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 21:01:03.35
夷陵でどれだけの人間が死んだのか調べてみれば>>344みたいな発言は出ないと思うんだがな
その後に起こった大規模叛乱なんかを考えると、ぶっちゃけそのまま滅んでもおかしくなかったよ蜀は
348 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 21:29:06.66
蜀患者はほら吹きオンパレードだしなw
349無名武将@お腹せっぷく[age] 投稿日:2011/06/22(水) 22:57:37.55
>>347
夷陵当時の蜀の人材を全部書き出してみたらどうだ。

>その後に起こった大規模叛乱なんかを考えると、
そんな事実はない。
南中の反乱を言ってるのかも知れないが、蜀漢政権の基盤は巴蜀であり、南中は生命線ではない。
黄元の反乱を言っているのであれば、あれは小規模であり、ただちに鎮定された。
350 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 17:40:15.23
>>349
南中で反乱が起こり、長期間対応できず放置したけど
蜀漢政権の生命線ではないから大規模反乱の事実はない
351 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 20:23:56.36
長期間でもないだろ
呉の交州反乱、晋の関中反乱と比べても。
352 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/25(土) 23:13:42.08
おおよそ反乱は1~2年続いが
呉の交州反乱、晋の関中反乱と比べれば長期間じゃない
353 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 18:19:07.15
一~二年の反乱なら中国ではむしろ普通では
354 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 21:53:09.13
中国でもまともな国家運営ができていない混乱状態であればままある事だが
まともに国家運営できていれば、反乱が年単位で続き、鎮圧できない状況は普通ではない
355 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 22:11:30.17
呉…
356 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 22:39:24.82
孫晧時代はまともな国家運営ができていない混乱状態だろ
孫権時代の頃の士徽の反乱は鎮圧に年単位もかかってない
357 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/06/27(月) 14:28:00.76
孫権時代も鄱陽や廬陵の反乱なんかで1年越えてるのはあるな
358 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/07/03(日) 14:38:44.09
また蜀ヲタによる呉叩きかよ
359 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 08:34:06.28
蜀にも太守が長年赴任できなかった越嶲郡とかあるけどね。
360 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/11/28(月) 13:03:02.55
>>347
>ぶっちゃけそのまま滅んでもおかしくなかったよ蜀は
諸葛亮が死んでからでも30年近く国として維持できてるんだがw
361 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/11/29(火) 01:46:39.38
ひとえに阿斗ちゃんの人望だろうな
362 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 20:47:08.95
費イって立場的に微妙だよね。
出身は荊州だけど、劉璋と姻戚関係があったおじと共に益州に来てる。

劉備時代の益州では劉璋の親戚ということはマイナス要因にしか
ならないと思うが、追い出された劉璋にはついて行かなかった。
優秀な若者ということで引き留められたのかな。
363 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2012/01/30(月) 07:02:43.74
やっぱ姜維が直接的戦犯だな
364無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 20:39:41.15
そもそも馬鹿諸葛亮が姜維を魏から奪ったせい
これがFAだ
その馬鹿諸葛亮は馬謖を街亭に陣取らしたせい

総ては諸葛亮が馬鹿だったから
365 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/03/11(日) 00:06:47.74
>>364
それじゃあ劉備に人を見る目が無かったということになってしまうぞ
366 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/03/12(月) 09:15:12.92
どうやってもダメだっただろ
ジッとしてても国力の違いで差が開くだけだし
北伐成功するしか無かったんだろうがかなりの無理ゲー
367 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 23:05:41.12
蜀は諸葛亮が出しゃばったせい
魏は司馬懿が出しゃばったせい
368 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 03:53:42.28
これは孟達
369 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/07/02(月) 22:59:00.21
でもさ劉禅って良い人じゃね?
370 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/07/05(木) 00:34:01.57
良い人と良い君主はまた違うからなぁ
371 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2012/08/03(金) 00:22:49.36
そもそも、劉備は国を建てられるほど権勢がなかった。
滅びて当たり前
372 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2012/08/03(金) 20:16:50.87
黄皓
373 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2012/08/03(金) 20:52:22.53
益州の人口が乏しかったこと
374無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/08/03(金) 21:13:41.23
思ったんだが、唐入りって家康行かせれば成功してたんじゃね?
375 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/08/04(土) 01:51:38.35
>>374
アホか
成功するわけがない
376 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/08/08(水) 18:37:44.06
諸葛亮と関羽が悪い
377 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 13:21:38.73
:蛆虫確定:2012/01/27(金) 22:28:50.15
532 無名武将@お腹せっぷく [] 2011/12/09(金) 12:54:28.66 ID: Be:
学徒蛆虫と肥溜め新党

533 無名武将@お腹せっぷく [] 2011/12/09(金) 12:57:26.80 ID: Be:
と、蛆虫の巣窟に書き込んだ時点で自分も蛆虫であるという事実が受け入れられない蛆虫がほざいてます^^^

534 無名武将@お腹せっぷく [] 2011/12/09(金) 13:00:21.92 ID: Be:
受け入れていないとは言ってないんだがw
認定厨乙w

535 無名武将@お腹せっぷく [] 2011/12/09(金) 13:01:07.20 ID: Be:
>>533の通りなら学徒蛆虫であってるじゃないかwwwwww
書き込んだ時点で学徒も蛆虫wwww

新党に書き込む=自動的に蛆虫
新党に書き込む学徒出陣は蛆虫確定
378 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 15:23:49.14
孔明が「法正が生きていれば・・・」とかなんとか言ってたんだから病死した法正の責任だろう。
379無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 18:41:23.42
関羽とその後の劉備だろ
諸葛亮の時はもはやムリゲー
380 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2012/08/20(月) 22:20:19.77
関羽のせい
381 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2012/08/21(火) 08:40:06.44
思ったんだが、唐入りって家康行かせれば成功してたんじゃね?
382 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/08/21(火) 19:51:16.76
何がw
383 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 11:42:21.50
劉備本人
384 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/09/09(日) 19:30:27.11
本命:関羽馬謖姜維
次点:劉備
とどめ:黄皓
385無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2012/09/14(金) 20:43:47.62
>>379
> 関羽とその後の劉備だろ

この2人がいなかったら蜀自体存在してない。
劉封・孟達あたりが戦犯じゃないか。
この2人ならいなくても蜀は成立してるだろうし。
386 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/09/14(金) 20:50:16.62
>>385
孟達、劉封いなかったら関羽の北上計画はもっと早くに頓挫してるよ
敗戦の責任者扱いで酷評されるけど、そもそも関羽がこの二人に多くを求めすぎだ
387 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/09/15(土) 00:23:23.92
1.当時の最高責任者。国政を蔑ろにした劉禅。
2.当時の主席家臣。国政を省みなかった姜維。
3.建国数年で崩御した先主。国是に背いて私怨で出師し大敗を被った劉備。

結局はこの三人、あとは有象無象。
388無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/09/15(土) 06:07:33.04
荊州失陥は蜀漢の戦略上致命的事由だから奪回に派兵することは国是に背くとは言えないだろう
問題は家来の言うこと聞かずに展開した軍の用兵にあったのではないだろうか
389 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/09/15(土) 06:15:05.47
>>388
ねーよ
ってか陸路で輸送考えたら展開しなかったら飢え死にだっつーの
390 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/09/15(土) 07:38:21.95
髭野郎
391 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/09/15(土) 19:44:41.42
かんう
りゅうび
りゅうぜん
392 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 23:17:49.87
終わった話をいつまでもグチグチ言ってんなよ
歴史にたらればは無いって言うだろ?
建設的な意見を求む
393 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2012/09/23(日) 16:43:51.62
建設的な?は?
394 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/04/01(月) 10:21:06.77
>>273
ヘ:::::::::;;: -‐''''""( )1
 ゙、::::::::-‐''""" ̄"'i
  :V;;||:::: '~ニ=ッ, r='|
  i!f !:::::      ゙、i
  i!ゝ!::::     ‐/リ
  i::/:、 :::、  /''ii'V
  ̄ハ:::::\ "''il|バ''
 ショカツリョウ
 諸葛亮 曰く
こどもは また あたらしいおんなをめとれば うめます
しかし とののぺにすは このよに ひとつしか ございませぬ
395無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/01(月) 12:00:19.71
鳳統の死は関羽の死に遠因してると思う
諸葛亮を呼び戻すことになったし、関羽の元に優秀な文官もいなかっただろう
396 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/01(月) 20:40:16.20
>>395
文官としてなら,潘シュンはホウ統より優秀だろう。
関羽を制御できないのはどうせ同じだろうし。
397 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/04/05(金) 15:51:09.74
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398 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 02:18:25.57
戦犯は居ないんじゃね?
ただただ及ばなかった、というだけ
あえて言うなら北伐を国家目標に掲げた諸葛亮か?
でもそこはしょうがないだろうし
399無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 04:26:51.89
>>395
龐統の死が関羽の死の遠因だとするのは同意できるがその論拠はおかしい。

龐統が生きていようがいまいが、諸葛亮が成都に行くのは変わらない。
宰相役たる者が首都で政務を行わないでどうするよ。
400無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 08:10:04.14
>>399
諸葛亮の宰相ポジションって確立されてたのかな?

留守番する前は本拠地の公安ではなく長沙南部の臨烝にいて,
長沙、桂陽、零陵の3郡を督していたのだけど。
401無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 22:54:22.92
>>400
確立されていないとしたら、誰が宰相役を担っていたかって話しになるけど?
官位的に上位者はいるけど、実務的には諸葛亮が回していたとするのが定説でしょ
402 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 22:38:44.66
>>401
本当に諸葛亮が実務の中枢を担っていたのなら,本拠地の外に出したりはしない。
というか,まだ荊州自体安定していない段階で宰相役を外に出す余裕なんてない。
臨烝駐屯が嘘でもない限り,その時点での諸葛亮は宰相役ではなかったと言うべきだろう。
(諸葛亮が公安にいたのなら,公安が属する南郡と一番近い武陵郡を督していないのはおかしい。
本拠地から離れた3郡を督したのだから,一時的でも中枢からは離れていたのだろう。)

そもそも群雄としての劉備は健在で地方官歴もあるのだから,
宰相役を1人決めなければならないってことはない。
403無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 16:49:59.39
蜀なんて田舎中の田舎だろ。
こんな所だけ取って皇帝名乗る、なんてのは日本で言えば北海道知事が俺は総理大臣だ!と名乗るようなもの
こんな馬鹿を誰が認めるんだって話だよ
要は蜀漢は建国の時点で既に滅亡が決まっていた。
404 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/04/12(金) 14:55:52.15
ぴよこたんは?
405 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/04/12(金) 22:04:40.17
猫ちゃんに好かれるようになりたいです
406無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 00:11:22.81
>>403
その蜀漢に負けまくり、蜀が滅びる前に
家臣に皇帝が殺されるようになって傀儡国家に成り下がってた魏とかいう
僭称国家って本当に無様だよね
407 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/04/13(土) 09:10:51.59
にょろたん
408無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 16:20:52.85
>>406
>その蜀漢に負けまくり

kwsk
409 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 18:02:27.41
蜀厨の妄想
410 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 18:29:41.75
>>408
1.諸葛亮に第2次北伐で追撃して逆に大破させられて王双将軍死亡、
2.諸葛亮アンド陳式に武都・陰平を攻略され、ついでにカクワイも敗走、
3.第4次北伐で諸葛亮率いる蜀軍に司馬懿・張コウ・カクワイが何度も破られ
追撃しても大破させられて張コウ死亡、
4.諸葛亮死亡後に、廖化が魏に侵攻しカクワイが軍を二つに分けて挟撃しようと
するも、廖化に先手を打たれて各個撃破されて大敗、2つの軍を率いた将軍の
一人は戦死、一人は重傷を負って敗走、という完全敗北、
5.曹爽が漢中に大軍で攻め込んで、王平にいいように防がれ、補給にも困り、
援軍も到着して大敗して追い返され、
6.姜維によって秋道の三県を攻略され、将軍の徐質も討ち取られ、
7.これまた姜維によって王経が大破させられ、数万の死傷

詳細に書いて毛ばまだまだ書けそうであるが、
一例だけでもこんなにあげられる
魏を圧倒的な大国という癖に戦闘内容はお粗末そのものだよね
411無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 22:58:59.27
蜀が敗戦した戦いも魏が負けまくった事にしてりゃ
そりゃ数は増えるなw

魏延の羌中侵攻を上げないなんて、にわかな証拠w
412 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 23:20:16.38
そもそも、このスレで空気読まずいきなり魏叩く有様だもんな
この害虫
413 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 23:24:36.37
と、必死な魏オタであったw
馬鹿杉w
414 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 23:27:21.30
>>411
あれあれー?
会戦で堂々と敗北したり、将軍が死亡して撃破されてるのって貴方の世界じゃ
相手側の敗北になるんですか?
そういうのを普通は負け惜しみっていうと思いますがw

魏延の侵攻も他にも色々あげられますよ?
「詳細に書けばまだまだかけそうであるが」と
しっかり書いてありますよね?
それはそうと、圧倒的な大国といいつつも、こんなに蜀に負けて
将軍を何人も討ち取られて色々恥ずかしくないんですか?w
415無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 23:41:27.67
素直に「知りませんでした」って言えばいいのに…
416 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 23:52:14.24
蜀馬鹿必死
417 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 23:52:31.10
>>415
知らないわけがないでしょw
魏延伝にも季漢賛にもしっかり乗ってる記事なんだからw

というか、貴方の仰ってる「蜀の敗戦を魏の負けにしている」という論旨に
ついて詳細なご説明を頂きたいものですなあw
将軍が殺されたり、会戦で打ち破られるのを相手の敗北とする論旨には
非常に興味をそそられてしまうのでw
418 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/13(土) 23:53:14.14
魏馬鹿は必死で一行煽りをする事で必死にプライドを守ってるようですw
419 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/14(日) 11:21:58.38
そんな魏が負けたかな?
420 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/14(日) 19:37:20.05
かなり負けてる。
特に魏が圧倒的な大国と主張するならば、これだけ負けてるのはおかしい、と
思えるほどには。
421無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/14(日) 20:07:06.59
国が揺らがないから負けてないよ
勝敗なんざ価値観だろうな

仮に
勝ち連発だけど効果がない蜀の軍勢なんざ大したことねーし
422無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/14(日) 20:34:00.15
長安まで辿り着けない蜀…
423 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/14(日) 20:39:34.41
>>421
「国が揺らいでないから負けてない。」
こんな斬新な負け惜しみ初めて見ました。
将軍が戦死しても、軍勢が打ち破られても、それでも負けてないと
主張できるのはV速民並の精神的勝利法だと思うので
普通の人間は誰も賛同しないもんだと思いますので、価値観以前の問題化と思われます。

少なくとも、魏の明帝は蜀軍が退く度に大喜びしてます。
第4次北伐で李厳やらかしで蜀軍が帰国した後、明帝は恩賞を大盤振る舞いしてますし
第5次北伐で諸葛亮が病死して蜀軍が帰国したのを知った時は司馬懿に対して
絶賛ともいえる賛辞を送っています。「これがどれだけ偉大な功績かは
時が教えてくれるであろう」的な感じで。
V速のネタで使われる精神的勝利法を真顔で主張なされる方には少し理解しにくいかも
しれませんが、現実問題として、当事者達は誰も「大したことない」なんて
寝言をほざいてはいなかったわけですね。
424 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/14(日) 20:41:39.07
>>422
圧倒的な大国といいながら、蜀軍に負けまくり、引き籠り、
それで長安まで辿りつかれなかったと大はしゃぎする大国の信奉者さん…
なんて哀れなんでしょう、なんて憐憫を誘う光景なのでしょう
425無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/14(日) 20:56:36.19
小物を狩ったからって、ドヤ顔で勝った勝った言われてもな。
426無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/14(日) 21:05:28.95
>>425
魏の宿将である張コウも小物っすか
司馬懿も諸葛亮に負けてるから小物っすか
カクワイも小物っすね
曹真も漢中で追い返されてるから小物っすね
他にも蜀との戦いで死んでいったり敗北した将軍たちも小物っすね
魏の西部方面担当の高位の主要人材が数多く小物にノミネートですね。
そんな小物ばっかの国って小物な国でしかないのではないでしょうか。
427無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/15(月) 00:31:21.74
最期にその小物に負けた蜀はガラクタっすね
428無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/15(月) 03:14:51.48
北伐中の一部分の局地戦で撃退できたから勝ったって言われてもね…
孔明の北伐は3次を除けば負け続き
その3次だって魏側の戦略的撤退(交戦せずに撤退)

蜀中毒は、
漢中で劉備が篭って曹操を撤退させたことは、酷く評価するくせに
仲達が篭って孔明を撤退させたことは評価しない

孔明が張コウを討ち取った事を誇るくせに
姜維の北伐で張嶷が戦死してても無視する…
あ、これは知らないだけか

ともかく、ダブルスタンダードな輩が多くて話にならんな
429無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/15(月) 06:34:24.90
>>426
だったら箕谷で追い返された趙雲も小物だし,
陳倉で追い返された諸葛亮も小物だな。

小物同士が勝った負けたやってただけじゃないのか。
430無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/15(月) 11:30:09.72
段谷の敗戦でほぼ滅亡が確定しちゃったからなぁ
431 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/15(月) 18:50:03.81
>>427
最後?蜀が滅亡する前に既に魏は皇帝が召使300人で出撃して殺されるくらい
司馬一族の専有物に成り果ててますが?これで蜀を滅ぼしたなどとおこがましい
曹操時代の華北制覇を献帝の功績にするくらい無理があるな
432 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/15(月) 19:04:07.00
>>428
馬鹿すぎて話にならないな
圧倒的な大国を自称する癖に
将軍が戦死させられたり、会戦で敗北してるにも関わらず
引き籠ってお引き取り願ってドヤ顔とか
言ってて情けなくならないわけか。まあ、ろくに戦績も知らないようだから
無理もないかw

魏側の戦略的撤退ww
その理屈なら蜀なんか全然負けてない事になるな。
なんせ会戦では勝ちまくって、追撃されても撃退してるんだから。
戦わないで逃亡したのを敗戦じゃないと抗弁するなら、
蜀はろくに負けてない事になる、っていうか、街亭の時も諸葛亮本隊は
戦ってないんで戦略的撤退だな。マジで蜀の敗北が消滅したなww

あれあれ?劉備の漢中戦の時は、劉備が漢中を取りにいったわけで
曹操軍ナンバー2といえる夏候淵をはじめとして武将達を何人も討ち取り、
もらうもんもらって曹操を迎撃したわけですが?領地とっちゃってるんですが?
圧倒的な大国を自称する割に、兵力的にも優位なくせに引き籠ってた魏とかいう
どっかの廃人ニートの妄想願望の仮託対象とはわけがちがうんですが?
ていうか、戦ってないわけじゃなくて漢中戦における法正のエピソードとか
見るに、曹操が攻め込んで劉備がそれを防いだり、撃退し続けただけに見えるな
最後の撤退も、諸葛亮はろくに被害を出さずに見事に引きあげ、
曹操の場合は犠牲者・逃亡者が続出して退却、と全然違いますが?w

あれあれ~?張嶷は病身を押してなお出撃し、命と引き換えに勝利を得て
敵将も戦死させてますが?
張コウさんは健康体で有利な追撃戦やっておきながら、諸葛亮に迎撃されて
撃破されて戦死してますが、貴方の中だとこれが同じになるわけ?
相変わらず、知識も論理もめちゃくちゃなんだから、無理して「戦死した」という
内容だけ同じもんを出して同じだと発狂しても恥かくだけだって学習したら?w
あ、無理かw知識も論理もめちゃくちゃだもんねw

ダブスタじゃなくて、単にお前が上の事例みたいにまったく別の事柄を
ろくに中身も知らずに無理やりいっしょくたに妄想してるだけだろw
こんなんで自分の中だけでは整合性とれてるつもりなんだから、
本当に馬鹿丸出しだなw
433無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/15(月) 19:09:14.59
>>429
ええ?趙雲さんは陽動目的の一部隊だけで
魏の主力軍である曹真軍を迎撃し、戦力的に劣ったが故に勝利は得られなくとも
兵をまとめて固く守り、見事に大敗に至らず支えきったのですが?
そんで本隊が引き揚げたのを受けて帰国したんですが?
こんだけ有利な状況でありながら、趙雲に見事な引き上げをされて
ろくな損害も与えられず、軍需物資もほとんど奪えなかった魏って何?

第2次は第三次と連動した陽動作戦ですが?たった張コウが言うように
もともと蜀軍は大した兵糧を持ってきてないわけでね
しかも引き上げの時には例によって追撃してきた魏の将軍を戦死させましたw
434 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/15(月) 19:11:32.79
>>430
蜀が滅亡する以前に、魏では皇帝が司馬一族の傀儡に成り果て
逆上して召使300人で出撃して殺されるくらいに
司馬一族の専有物になりはててるけどね
まさか、召使300人しか動かせない中小豪族程度の動員力の分際で
蜀を滅ぼしたのは魏だとかいわないよね?
その理屈なら曹操時代に華北を制覇したのは献帝陛下になるから
435無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/15(月) 19:49:10.19
引き籠もって自滅したのが諸葛亮なんだけどね。
436 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/15(月) 20:04:41.21
>>435
え?諸葛亮がどこに引き籠ったの?
国力9倍の敵国に踏み込んで、勝利を重ねて相手が引き籠るくらいに威を示し
同時代にも後世からも「諸葛亮は司馬懿より上だ」と言わしめた諸葛亮が
一体どこに引き籠ったの?
他国に攻め込んだのが引き籠ってる事になるの?ねえねえ、教えてよ~
437無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/15(月) 20:36:52.56
それ以前の事を言ってんだと思うが。
一々説明せにゃ分からんのか…
438 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/15(月) 21:12:41.24
>>437
一々説明できるもんならしてみそ~
諸葛亮がいつ引き籠って自滅したんだい~?
史実で見る限り、引き籠ってるのは司馬懿をはじめとする魏の人達じゃないか~
君の痛い妄想願望世界の事じゃなくて
史実をもとにして話あおうじゃないか~
439無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/15(月) 23:21:52.77
魏は守備側だから引きこもってるとは言わない。
諸葛亮は攻め側なのに人遣って挑発しつつ陣に引きこもり。


一番引きこもってるのは劉禅かw
440 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/15(月) 23:27:05.05
>>439
ええ?その理屈だとニートの人とかは自宅に常時滞在してるのを引き籠りとはいわず、
逆に外に出て会社とかに滞在してる人とかのを引き籠りっていうんですか?
さすがにそれは色々と社会常識的に歪んだ価値観だと思うので
人前で主張するのはやめた方がいいと思うます!

自国に常時滞在してるのを引き籠りとは言わないんじゃないんですか?
なんで劉禅の時だけ定義がかわるんですか?
相変わらず結論ありきで構成した適当論旨だから無理が出るのも早いですね(爆笑)
441無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/16(火) 00:10:50.30
歪んでるのはそっち
442無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/16(火) 00:28:30.70
諸葛亮が北伐で局所的に勝利をおさめてたのは認めるべきだろ
それが中華の大局を変えるにはおよばない小さなものだったってだけで
443無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/16(火) 11:25:46.60
>>442
誰もそこに異論は唱えてないんだけどねえ
馬鹿が一人で騒いでるだけで
444 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/16(火) 19:35:38.21
>>443
おやおや?このスレにいるやたらと必死な魏の崇拝者さんは
>>421では「国が揺らがないから負けてない」とか
>>428では「孔明の北伐は3次を除けば負け続き
その3次だって魏側の戦略的撤退」とかいう、色々必死な史実と隔離した妄言を
書いてらっしゃるわけですが?
必死に自分が馬鹿晒したからと言って、論旨のすり替えに必死になっちゃって
魏の信奉者さんって大変だなあ、と感じるよ
445 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/16(火) 19:39:02.63
>>441
具体的にどうぞw結局のところ、自宅に常時滞在のニートを引き籠りと言わず、
外に出て会社に滞在してる人を引き籠りと主張するような、
そんな常識的に見て歪みまくった論旨を唱えられた以上、
歪んでると言われてしまうのはしょうがないと思いますよ?w
結局のところ、自分で言い出した事であるが故に引っ込みがつかず
抽象論でごまかすしかできず、鸚鵡返ししかできないさまは
哀愁を誘う事このうえありませんねw
446無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/16(火) 19:56:30.06
諸葛亮が勝った戦なんてないしねっ
447無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/16(火) 21:08:18.46
>>433
あなたがどのような妄想を展開しようが知りませんが,諸葛亮本人は,
>臣以弱才,叨竊非據,親秉旄鉞以厲三軍,不能訓章明法,臨事而懼,
>至有街亭違命之闕,箕谷不戒之失,咎皆在臣授任無方。臣明不知人,
>恤事多闇,春秋責帥,臣職是當。請自貶三等,以督厥咎。
と言っていますよ(三国志巻35諸葛亮伝)。
少なくとも諸葛亮にとって,趙雲は期待に応えられなかったとされているのですが。

>第2次は第三次と連動した陽動作戦ですが?
これは渡邉義浩氏やJominian氏が主張されていますけど,
そもそも三国志や華陽國志の記載と矛盾していますが。
第2次北伐は建興六年に終了して,第3次北伐は同七年に開始されているのですが。
(いやまさか,後主伝すら読めないってことはないですよね。)

かかる想定が無茶苦茶なのはJominian氏のこの主張からも明らかでしょう。
>また、陳式の援護の為に武都へ出るのなら、一度漢中に退いたという蜀書の記述は少々不自然だろう。
http://blogs.yahoo.co.jp/antoine_henri_jomini/archive/2008/04/14
史書を無視した妄想を前提として,史書の記載を疑う態度は歴史学として相応しいのでしょうか?
448無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/16(火) 21:29:00.47
>>447のおまけ
>六年春,亮出攻祁山,不克。冬,復出散關,圍陳倉,糧盡退。
>魏將王雙率軍追亮,亮與戰,破之,斬雙,還漢中。
>七年春,亮遣陳式攻武都、陰平,遂克定二郡。冬,亮徙府營於南山下原上,
>築漢、樂二城。是歲,孫權稱帝,與蜀約盟,共交分天下。
(三国志巻33後主伝)
>冬,亮復出散關,圍陳倉,曹真拒之,亮糧盡而還。魏將王雙率騎追亮,亮與戰,破之,斬雙。
>七年,亮遣陳式攻武都、陰平。
(三国志巻35諸葛亮伝)
>冬,亮復出散關,圍陳倉。糧盡還。魏將王雙追亮。亮合戰,斬雙。
>七年春,丞相亮遣護軍陳式攻武都、陰平。魏雍州刺史郭淮出將擊式。
>亮自至建威,淮退,遂平二郡。
(華陽国志巻7劉後主志)

ついでに諸葛亮の丞相復帰の詔を。
>街亭之役,咎由馬謖,而君引愆,深自貶抑,重違君意,聽順所守。
>前年燿師,馘斬王雙;今歲爰征,郭淮遁走;降集氐、羌,興復二郡,
>威鎮凶暴,功勳顯然。方今天下騷擾,元惡未梟,君受大任,幹國之重,
>而久自挹損,非所以光揚洪烈矣。今復君丞相,君其勿辭。
(三国志巻35諸葛亮伝)
>街亭之敗,咎由馬謖,而君引愆,深自抑損。重違君意,聽順所守。
>前年耀師,馘斬王雙。今歲爰征,郭淮遯走。降集氐羌,興復二郡。
>威震凶暴,功勳赫然。復君丞相,君其無原詔作勿。辭。」
(華陽国志巻7劉後主志)
449 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/16(火) 22:05:18.25
>>446
あれあれ~?
前の方では第三次北伐は勝ちとか言ってたのに、とうとうそこまで
妄想願望で逃避しちゃうわけですかww
そりゃ、他の数多の敗北なんて認められるわけないですよねw
450無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/16(火) 22:16:23.80
>>447
それこそ、貴方の妄想世界のお話かと。
趙雲はもともと陽動作戦が目的だったわけで。
本軍が敗北して作戦終了したのに、陽動部隊だけで戦えとでもいうんですか?w
さすがにそれは現実を通り越した妄想としか言えないでしょうw
ただ単に第1次北伐が失敗で終わってしまったが故に、もう一方の責任者である
趙雲も降格を免れなかった、というだけの話ですよ。

>第2次北伐は建興六年に終了して,第3次北伐は同七年に開始されているのですが。
>(いやまさか,後主伝すら読めないってことはないですよね。)
貴方はそれを本気でいってるんですか?w諸葛亮伝にはしっかりと第2次北伐を
「6年の冬」に開始して、「7年の春」に第三次を開始した、と書いてあるんですがw
軍隊の連動性を考えれば、間髪入れず、と言っていいタイミングですよw
貴方はひょっとして一年くらい間隔開いてると勘違いしてたわけですか?
貴方の大好きな後主伝にしっかりと「冬」と書いてあるのにも関わらず、
そんな解釈に至るとか、貴方は相変わらず漢文が読めないんですねww

わかりました?
史書の記述を無視した妄想を展開してるのは貴方、ああ、ただ単に貴方は
文章が理解できなくて第2次と第三次の間隔を一年くらい空いてると
勘違いしちゃっただけですよねww貴方は何にも悪くないんですよねww
451 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/16(火) 22:26:14.98
>>448
んで、得意げにつらつらと後主伝とかを紹介してくれてますが、
その中にしっかりと「6年の冬に散関を出て陳倉を囲む。」とか
「7年の春に諸葛亮は陳式を派遣して武都と陰平を攻めさせた。」とか
しっかり書いてあるんですがw6年の冬に攻めるのを開始して、
しばらく囲んで、それで一旦国に帰って再出撃すれば、
そりゃ7年の春くらいにはなるわけですが、貴方はまさか「前年」とかいう言葉に
とびついて一年くらいの間隔があいてると勘違いしちゃったわけですかww
知ってました?12月31日とその次の日は一日違いだけど年は違うんですよww
ちゃんとそこら辺を理解してから漢文を読んでくださいねww
452 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/16(火) 23:13:11.48
結局、劉備のたった一言がダメダメだって事よ
453 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/17(水) 11:54:21.88
哀れ
454 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/17(水) 17:26:43.61
確かにここで論破されてる魏の崇拝者さんは哀れだな
455無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/17(水) 18:25:53.17
ボンクラ君主にヘタレ丞相
蜀は大変だ
456無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/17(水) 19:51:15.22
ジョミに喧嘩売るとかすげーなこいつ
自分がどんだけ馬鹿なのかも理解してないらしい
457 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/17(水) 20:33:16.12
蜀age厨によくあるパターンねっ
458無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/17(水) 20:56:02.48
>>450
>それこそ、貴方の妄想世界のお話かと。
私の意見ではなく,諸葛亮が「箕谷不戒之失」と書いたと言っているのですが。
処分はともかく,単なる敗戦なら「不利」とでも書けばいいと思うのですけどね。

>>451
いや読めていないじゃないですか。
>魏將王雙率軍追亮,亮與戰,破之,斬雙,還漢中。
>七年春,亮遣陳式攻武都、陰平,遂克定二郡。
陳寿は陳式が出撃する前に諸葛亮が漢中に帰った(還漢中)と書いていますよ。
これでは続けて2回北伐を行ったとは言えますが,陽動にはならないでしょう。

もちろん,現行の三国志(標点本)が信用できないというのでしたら別ですが。
459無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/18(木) 03:05:23.53
>>456
いやいや、ジョミさんの見解を否定してるのってあんたでしょ。
結局のところ、ジョミさんは「第2次と第3次は一つの戦役と見て
差支えのないものであった」としてるわけであって
結局のところ、途中から諸葛亮は陳式を主攻とし、自らの攻勢を陽動とする
作戦に切り替えたとしてますがw
というか、お前は結局のところ、陽動策を否定したいのか肯定したいのか
どっちなんだよwジョミさんの論旨を読めば、到底お前のいうような
単純な別個論じゃない事はよくわかるはずなのに、
自分と違う意見を必死こいて同一化させて論破されたら権威にすがりつくとか
無様すぎるだろw
460無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/18(木) 03:15:00.15
>>458
趙雲伝にはしっかりと「敵が大軍だったんで利を箕谷に失ったが、
兵をまとめて固守し、大敗には至らなかった」としっかり書いてあるよ。
結局のところ、第一次北伐自体が失敗してしまった為、陽動策の趙雲の動きも
敗戦として処理せざるを得なくなり、そう表記さいただけの話。

いや、なるでしょ。
上でもいってるけど、軍隊の連動性を考えれば、第2次と第3次って
ほとんど間髪入れずに行われてるわけで、
陳倉を攻めて、敵側にそこ方面が攻撃目標だと思わせ、その上で引き揚げて
敵側にもう侵攻は終わったと誤認させ、そこから間髪入れずにまったく別方面を
急襲して占拠する、教科書みたいな見事な陽動作戦の一例だとしか見れませんが。
あなたってまさか、陽動作戦って二つの部隊が別個に別方面で動く事だけだとでも
思ってたわけですか?wさすがに漢文の解釈の仕方が異常な方は、陽動作戦の定義も
色々と異常でいらっしゃるw
同じような文体を連投で毎回行って多数派にみせられてるとでも思ってるわけですか?w
461 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/18(木) 03:16:17.36
>>455
圧倒的な大国といいながら、その二人に負けた君主と司令官もいるけどなw
後世からの評価の差は残酷なまでだなw
462 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/18(木) 07:36:06.61
あっそうですか、敗戦国なのは蜀なんだけど
463 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/18(木) 11:32:55.50
敗戦国?どこに敗戦したのやら
蜀が滅亡するよりも前に皇帝が召使300人連れて兵をあげて
殺されたくらいに司馬一族の傀儡国家になってたのが魏でしょ
これで蜀を滅ぼしたのが魏とかいうなら
曹操時代に華北制覇したのは献帝陛下だわ
464無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/18(木) 12:05:43.34
僕が考えたつおい蜀。。。
465 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/18(木) 12:09:15.82
>>459
日本語くらいまともに理解出来るようになってから出直してこい
読解力無さすぎ
466 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/18(木) 12:59:51.71
あー言えば屁理屈ばっかの蜀厨がウザい
まともな精神じゃないだろう、変な宗教やってそう
467無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/18(木) 21:12:42.30
>>460
>結局のところ、第一次北伐自体が失敗してしまった為、陽動策の趙雲の動きも
>敗戦として処理せざるを得なくなり、そう表記さいただけの話。
王平なんて街亭派遣軍にいたのに昇進していますけど。
もちろん功績があったからですが,北伐全体の失敗と個人の責任は別だってことでしょう。

ところで,あなたは陳倉への援軍がどこから来たと思っているのでしょうか。
確証はありませんが,西方戦線に復帰した曹真の駐屯地はまず長安でしょう。
張コウが関中諸軍を率いて荊州に向かうような状況で,長安を空けるわけないのですから。
だから費曜等の援軍も長安から陳倉に向かったのでしょう。
荊州にいた張コウまで向かわせたのですから,長安の兵を出さないわけがないですよね。
と言うことは,諸葛亮の陳倉攻撃は東方から敵軍を呼び寄せたことになるのですが。
漢中よりも西にある武都、陰平を攻略するための陽動として何の意味があるのでしょうか。
468 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/19(金) 01:31:49.76
>>464
実際に強いからなー。
魏とかいう圧倒的な大国らしい国に何度も勝てる程には。

>>465
具体的にどうぞ。
そうやって抽象論で断定されても、こっちとしては笑止としかいえない。
ま、論破された魏信奉者さんの最後のよりどころが
そうやって抽象的に読解力と喚く事なんだろうけどw
469無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/19(金) 01:40:16.01
>>467
一応趙雲は負けた事になるからね。
魏の主力軍相手に一部隊で戦って陽動の役割を十分に果たしたとはいえ、
立場上、一方の旗頭であった趙雲も、今回の北伐で敗れた以上、
結果として陽動策の効果も特にない敗戦になっちゃったわけで。
諸葛亮も降格したように、趙雲もそうせざるを得なかっただけ。

確証がないんだったら適当な事を言わないでほしいのですが。

魏の目を陳倉方面に向けさせることですね。
もともと曹真に予想されていた事でもありますし、
魏軍が予想通りとそこに意識を集中し、諸葛亮が引き揚げた事によって
これで蜀軍の侵攻が終わったと誤認させ、魏が油断した隙に
一気に武都・陰平を攻略したわけです。結局のところ、普通にやれば
蜀軍が侵攻を開始した時点でどこからであろうと援軍はきます。
カクワイだけで対処できるわけがないのですから。
だからこそ、蜀軍の本当の攻撃目標を誤認させる陽動攻撃を行い、
そこから間髪入れずに本当の攻撃目標に向かう、という事が大きな効果を
持ったわけですね。というか、この程度の事、説明しないとわからないのでしょうかw
470 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/19(金) 02:52:29.59
雲別伝を信用するのであれば、撤退成功は功績として扱われ、
軍需物資を払い下げて貰えたが断ったことになる。
王平のように敗戦の中にいて功績の有った者は賞されるのと同様に、
趙雲もまた賞されていたと見る事が出来る。

雲別伝を信用するのであれば。

雲別伝を信用するのであれば。

雲別伝を信用するのであれば。
471 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/19(金) 16:22:13.45
趙雲別伝
472無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/19(金) 20:22:16.38
>>469
いや趙雲が負けなのなら王平だって負けでしょ。
王平の足止めって惨敗を大敗にした程度の違いしかありませんよ。

>確証がないんだったら適当な事を言わないでほしいのですが。
むしろ確証も出さずに陽動だなんて言っているのが渡邉義浩氏やあなたなんですけどね。
(渡邉氏なんて学術書の『三国政権の構造と「名士」』ですら結論しか言っていませんし。)

>魏の目を陳倉方面に向けさせることですね。
ですから,漢中より西にある武都や陰平を狙うのに陳倉に着目させる意味がどこにあるのでしょうか。
曹魏軍の大半は陳倉よりも東にいたのですよ。
少なかった敵軍を増やすことにしかなっていないのですが。
もし違うと言い張るのでしたら史料的根拠を出してくださいよ。無理でしょうけど。

第3次北伐なんて油断させるも何も,最初から2郡と天水郡に部隊を出せば済む話でしょう。
隴右なんて最初から郭淮くらいしかいなかったのですから。
わざわざ陳倉なんか攻めた時点で,陽動なんかじゃないのは明らかでしょう。

まあ諸葛亮信者が第2次北伐を陽動としたがるのは理解できますけどね。
信仰と歴史考察を一緒にしちゃダメでしょ。
473 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/20(土) 00:07:43.25
三戦板的には蜀漢滅亡の戦犯って誰なの?

劉禅、姜維、劉備
474 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/04/20(土) 03:53:07.73
関羽
475 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/20(土) 05:57:48.88
諸葛亮
476無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/20(土) 06:41:39.90
>>472
それはお前さんの妄想。
一方の旗頭だった趙雲と、一武将で諫言も無視された王平では違う。

適当言ってるのはそっち。
冬と春の記述くらい見落とさない様になってから寝言いってね。

そのままだったら他の軍が大挙して諸葛亮軍の妨害に来ますよ。
一旦陽動して、それを敵に蜀軍の思惑だと誤認させた事に
大きな意味があったわけです。
実際に第三次北伐で蜀軍の妨害に出てきたのはカクワイ以外にいましたか?
いるというなら根拠出してくださいよ。どうせ無理でしょうが。
結局のところ、結果から見れば明らかに諸葛亮は貴方の妄想と違って
魏軍の妨害を減少させて2郡攻略に成功してるわけ。

ま、魏の崇拝者が必死で諸葛亮に翻弄された事実を無視した気持ちは
わかりますが、現実はちゃんと認めないといけませんよ。
477 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/20(土) 08:44:25.81
キモッ
478 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/20(土) 14:59:41.31
陳倉ってのは交通の要衝にある、とよく言われるけど
どのような要衝にあるか、ということは結構無視して語ってるよね

陳倉は渭水で上ケイと繋がってる水路の要衝と
散関の北に位置する陸路の要衝が一点に集まった場所ということを頭に入れて考えないと
「陳倉に引き付ける」という意味が理解できないと思う

まあすっごいざっくばらんに言うと陳倉が落ちれば隴右も落ちるし
関中にも大軍送り込めるようになってしまうので陳倉が最優先
諸葛亮がちょっと引っ込んだくらいでは全然安心できなくて固守しようと必死ってこと

陳倉は水路の要衝で上ケイと繋がってるけど、武都を救うには
上ケイ行ってそこから南下して陸路で救いに行ったら
帰り道はまた陸路で上ケイ戻ってそこから水路で陳倉行くか
行きも帰りも蜀の勢力圏の山道を突破するか、それぞれの組み合わせになるけど
その間、陳倉誰守りますか?ってことを考えるといいよ

東に居た敵軍に「陳倉」を意識させることで
陳倉の西側への救援を出せなくする効果が陳倉攻めにはあるね
陳倉落ちるのが最も良い結果だけどそれでなくても無駄にはしないというのが
戦略家としての諸葛亮の手腕だね
479無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/20(土) 19:29:03.28
>>476
>そのままだったら他の軍が大挙して諸葛亮軍の妨害に来ますよ。
>実際に第三次北伐で蜀軍の妨害に出てきたのはカクワイ以外にいましたか?
>>472で書いたとおり,隴右には最初から郭淮くらいしかいなかったのですよ。
郭淮以外の者が出てこれるわけないじゃないですか。
史実の第3次北伐のとおり,諸葛亮に建威まで出られたらどうにもなりません。
援軍なんて,>>478氏が言うとおり陳倉まで来てさらに山を越える必要があります。
諸葛亮が関山道を抑えて,後は故道を抑えておけばまず問題ないでしょう。
2郡を奪取するために,陳倉を攻める意味なんてありません。

>>478
諸葛亮は曹魏側が手薄なうちに陳倉を奪おうと思ったのでしょう。
だから食糧不足を覚悟した上で,真冬に山を越えてまで攻め込んだと。
ただ予想以上の防備に手こずって,救援が来ちゃったから諦めたのでしょう。
2郡奪取が第2波として予定されていたのか,急遽考えたのかは分かりませんが。
480 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/20(土) 19:44:37.84
>>479
ですからね、普通は諸葛亮の目的が2郡攻略にありそうだ、と見られたら
魏はまず郭淮を派遣して、それを防がせ、時間を稼いでる間に援軍を
到着させようとするでしょう。ですが、陳倉をいったん陽動攻撃され、
しかもそれで諸葛亮が退いたとあれば、「もうこれで蜀軍の侵攻は防いだ」と
見て安心し警戒を解きます。そして、いったん漢中に到着した諸葛亮が間髪入れずに
22郡攻略に動き出した時、誰もが意表を突かれたわけです。
本来、こっち方面を真っ先に警戒しなければならないはずの郭淮すらね。
まあ、この方面にいる将が郭淮だけかは微妙なところですが。
単に郭淮しか動けた記述が無いだけですし。
そして、郭淮は慌てて2郡の防衛を狙いましたが、陳式の迅速な行動と
諸葛亮の後詰によって引き上げざるを得なくなり、
それをバックアップするはずの魏の援軍は一旦陳倉を意識してしまったが故に、
あるいは蜀が引き揚げた時点で警戒を解いてしまったが故に
到着できず蜀の完全平定を許してしまったわけです
おかしいと思わなかったわけですか?w第三次だけ魏がやたらと後手に回って
援軍も再奪還の動きも無い事にw魏への崇拝で論理がくもると大変ですねww
481 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/20(土) 19:45:04.71
ばくが考えたつおい諸葛亮^^
482無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/20(土) 19:45:29.18
22郡×
2郡○
増えすぎだw
483 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/20(土) 19:46:30.35
>>482>>480のレスの事ね

>>481
実際に強いからねーw
魏とかいう圧倒的な大国らしい国を何度も破るくらいにはw
484無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/20(土) 19:58:28.02
ちょっと遡って思ったけどジョミニアンに権威なんてあるの?
ご都合解釈で板を荒らす糞コテってイメージしか無いんだけど
485 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/20(土) 20:01:52.99
句読点代わりに、wを頻繁に使う奴って知的レベルが低いんだってね。
486 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/20(土) 20:37:42.36
確かに魏の崇拝者は知的レベルが低いな
487 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/20(土) 21:11:34.64
>>479
援軍が来ちゃったら諦めたというのはあまり正しい認識とは言えないと思う
諸葛亮の撤退理由は兵糧が終わったから、と諸葛亮伝に明記されているし
援軍が来る前にはもう諸葛亮は撤退していたと見た方がいいんじゃないか?
488無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/20(土) 21:16:09.14
>>484
確かに多少ご都合主義であったり自己の解釈を押し通す感のある人ではある

その上で、彼の考察は深い調査が窺い知れるものがあり
これならば信用してもいい、と人に思わせるものだから
信者も少なからずいるし、信者と言わないまでも彼に一目置く人は多い
489無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 09:35:52.28
>>488
明帝紀にはカク昭は登場せず,曹真が費曜等を遣ったことだけが記されます。
もちろん到着前には撤退したでしょうが,援軍も作戦を断念した理由の一つでしょう。

>>480
王双の件もありますから,援軍は状況確認のためにも一度陳倉まで来たでしょう。
曹魏側が一安心したとしても,長安や荊州より救援しやすい場所にいたわけです。
いくら陳倉が重要でも,援軍までいて誰も出せないってことはないでしょう。
もちろん第3次北伐が警戒を解いた後でしたら別ですし,私はそうだったと思います。
でもその場合,第2次北伐とは時間的に断絶していたことになります。
少なくとも安心して警戒を解く(=援軍が帰る)だけの時間が必要なのですから。
冬と春の違いに御執着のようでしたが,春って(閏がなければ)3か月もあるのですよ。
建興七年春に開始された第3次北伐が,春のうちに終わったとすべき根拠はありません。

2郡を奪うだけなら,最初から陳式と諸葛亮(と故道を抑える部隊)を同時に出せば事足ります。
郭淮だって関山道を越えなければ救援できないのですから,
先に動ける諸葛亮に前を塞がれることは避けられません。
第2次北伐は陽動作戦ではなく,陳倉を攻略しようとして失敗したのですよ。
490無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 16:11:33.33
>>489
資治通鑑でも春中には終わって諸葛亮が丞相に復帰したと書いてあるけど
あえて春で終わらなかったとする資料的な根拠って何かある?

春中にはもう終わってたと考える俺の根拠は以下の通り

諸葛亮の丞相復帰は詔勅によれば追撃軍撃破、二群平定、周辺民族を従えた手柄によるものである
つまり丞相に戻った時点で、平定は終わっているということになる

この年に結ばれる分天下の条約が6月にその条約文で「諸葛丞相」と書いてるから
国際的にも正式に丞相として認められているのが6月

孫権が皇帝になった時、諸葛瑾が大将軍になる
この時、諸葛瑾は弟が丞相であり一族の諸葛誕もまた魏で出世しており
一族が三カ国で栄える事を喜んでいる、とある
孫権の即位が4月の出来事なので4月より以前にも呉では丞相であると考えられていたことになる

ただし、これは諸葛亮が行丞相で正式な官位は右将軍であっても事実上の丞相だから
一族の人は丞相であると考えていたという可能性もあるので根拠としてはちと弱い
それでも4月時点で既に丞相に返り咲いた可能性を示唆する文章ではある
491無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 18:51:24.36
>>489
>時間的に断絶している事になります
その断絶って一体どれくらいの帰還だと思ってるのか知らないけどさ。
相変わらず根拠ない事を断定する妄想が激しいね。
普通は蜀軍が険しい山脈を越えてやってきて、城を攻略せずにまた山脈越えて帰ったら
普通は「あー終わった」と思うのが自然だよ。そして蜀軍が漢中に到達するまでには
時間的にも、魏が警戒を解くに至る十分な期間があったわけで。
蜀軍が漢中まで帰還したのはここら辺の効果も狙ってるわけ。
んで、魏はまんまとそれに引っかかったと。

冬と春に執着も何も、あんたの妄想と違って一年は間違いなく開いてないからね。
春のうちに終わった根拠は上の人も言ってるように孫権皇帝即位問題が根拠になる。
呉主伝によると、陳震が6月に孫権の皇帝即位を祝賀しにやってきてる。
それでその派遣は諸葛亮の指示を受けての事。そして陳震と孫権は会談し、
分天下の条約をかわすわけだけど、そこにははっきりと「諸葛丞相」と
明記されており、2郡攻略成功後の詔勅によって諸葛亮が丞相に復帰した後の
事であることが明白にわかる。つまり諸葛亮の2郡攻略成功は最高で見ても
6月以前が上限となる。この諸葛亮丞相復帰の情報が陳震自身によって報告されたものならば
陳震を派遣したのを決定したのが諸葛亮である事から見ても
孫権皇帝即位を認めるか否かを話合われた時点で、既に諸葛亮は丞相に復帰してた
事になる。そして孫権が皇帝に即位するのが四月。その情報が蜀に伝わるのに
タイムラグがあったとしても、時系列から見て最低でも5月には諸葛亮は
丞相として蜀国内にいなければおかしい事になる。
よって、諸葛亮が丞相に復帰したのは、ひいては2郡攻略に成功したのは
常識的に考えれば「最低でも」4月前後と考えるのが妥当、ってな話になる。

というか、上の人も言ってるけど資治通鑑でしっかりとこの諸葛亮の2郡攻略は
春、という季節項目の中で完結してるので、その後に孫権の皇帝即位関連の記述が
夏、と書いて分けてある時点で明らかに時期が違うものである事がわかり、
春中で終わった事が明白になるわけなんだけどね。
結局、君の妄想と違って、魏は諸葛亮の知略に見事に翻弄されたのが実態。
492無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:26:46.21
>>491
時間的猶予を考えると「魏が警戒を解いた」という説は正しくないとは思ってる
むしろ魏は陳倉に対して猛烈に警戒を固めたと言ってもいい
それは陳倉に拘る事でより遠い地域に関してのマークが薄くなるということでもある

ただでさえ重要な陳倉が攻められてしまったので警戒を強める魏にとって不幸な出来事が重なった
諸葛亮に対して騎兵で追撃させた王双が何と討ち死にしてしまった
これによって魏は「まだ諸葛亮が近くにいるかもしれない」という恐怖をより強烈に植え付けられた
結局、魏は諸葛亮を警戒するあまり翌年まで陳倉に注視していたであろうことは
曹真伝の「明年春、諸葛亮は陳倉を攻め落とす事が出来なかった」という文章に表れていると思う
年末に攻め込まれ、年末中に撤退した蜀に対し翌年春まで曹真は守りを固めさせた
これは魏側では全く諸葛亮の機動を掴めておらず陳倉を防ぐ事だけを考えさせてしまった

郭淮も武都、陰平に対する蜀の侵攻は掴んでいたし、曹真に対しても連絡を入れていただろう
しかし、陳倉と天秤に掛けた時、優先されるべきは陳倉であり
上記でも説明したように陳倉に対してプレッシャーが掛かっている状況では
陳倉を守る事に集中することしか出来なかったんじゃないかな

諸葛亮の本隊が建威に現れる時まで、郭淮だけでなく曹真たちも
結局諸葛亮の狙いがどこにあるのか、全く読みきれなかったというのが
第二次、第三次北伐の動きだったのだと思う

長文が読むの面倒くさいという人のために端的にまとめると
「王手飛車取りに泣いた魏」
ということになる
493 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:46:28.89
>>492
なるほどなるほど。論理的に筋の通ったいいレスですな。
確かにその可能性はある。考察ありがとう。
494無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 21:00:18.03
よう‐どう 〔ヤウ‐〕 【陽動】

本来の目的・意図を隠し、他へ注意をそらすために、わざと目立つように別の行動をとること。
495 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 21:19:25.33
つまり、諸葛亮の第三次北伐にとって
第2次北伐はまさに陽動だってわけだな
わざわざ辞書までひいてくれてありがとう!>>494
496無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 21:22:06.29
>>490
終わらなかったとは言っていませんよ。終わったとは「限らない」と言っているだけで。
>>491氏が言うとおり,遅くとも4月には終わっていたでしょうけど。

>>491
>普通は蜀軍が険しい山脈を越えてやってきて、城を攻略せずにまた山脈越えて帰ったら
>普通は「あー終わった」と思うのが自然だよ。
山を越えてやって来て攻略もしないで引き揚げたら,普通は何かあると思われます。
ましてや,前回陽動作戦に引っかかっているのですから。

第3次北伐が建興七年春完結でしたら,第2次北伐は建興六年12月完結になります。
そうでしたら,諸葛亮には3か月の時間があったことになります。
2郡攻略に,どれだけの時間がかかるでしょうか。
第1次北伐では,3か月以内で祁山を経由して街亭や隴西まで往復しました。
祁山での拠点構築や戦闘や帰路の住民選抜を考えれば,片道は長くても1月程度でしょう。
武都は祁山に行く途中ですから漢中から半月程度でしょうし,武都と陰平も似たような距離です。
2か月もあれば十分に攻略可能だと思います。

武都郡は,第1次北伐でも往復されているのに全く抵抗していません。
曹丕期の太守楊阜が郡治を関中に遷したから,ほとんど機能していなかったのでしょう。
さらに離れた陰平郡に至っては,太守任官者すら分かりません。
第1次北伐では相手にもされなかったのですから,なかば放棄されていたんじゃないですか。
497無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 21:22:47.05
>>492
諸葛亮が撤退した時点で,陳倉にはカク昭の守備隊がいました。
長安から来る費曜等と荊州から来る張コウも,そのうち到着するでしょう。
>>489でも書きましたが,これだけいて西方に援軍を出せなかったとは考えにくいのです。
張コウなんて3万人も率いていたのですから。
そうであれば,第2次北伐終了時に第3次北伐の気配はなかったと言うべきでしょう。

また陳倉にそこまでの価値があったとすれば,
なぜ諸葛亮はこの時以外狙わなかったのでしょうか。
曹真が死ぬ直前で司馬懿が転任したばかりの第4次北伐なんて,絶好の機会だったと思いますけど。
498無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 21:26:16.57
20日程度の攻城と行き帰りで終わる兵糧、
火矢で焼かれた攻城兵器という組合せを考えると
「進軍する攻撃部隊は兵糧少な目、荷物多目」ということになる

この部隊だけがやって来たというのであれば城を落としても
その後、魏軍が来たら簡単に飢え死にするということにもなりかねない
現地調達もするのだろうけど、清野されてしまったり、
そうでなくても必要量が得られない場合も考慮に入れると
「兵糧は後から誰かが運ぶ」という形が推測できる

という事はその「兵糧を運ぶ誰か」が諸葛亮の後を追いかけて居た、ということになる
「20日では届かない後方」であり、「兵糧満載且つ、運搬のための人員も多数」
確証はないんだけど、これって陳式じゃないかなー?と推測してみる

この陳式が、陳倉の攻撃失敗に合わせて即座に武都、陰平を攻略に取り掛かったと考えると
予め両取りになるように距離を調整して諸葛亮の後を追いかけていたのかなーと思う
ただあくまでも俺の思い込みだし、武都はそれでいいんだけど
陰平の方は地理的に不可能な動きになってしまいそう

攻略順が武都→陰平なら建威に諸葛亮が出て郭淮が逃げた後
陳式が武都から南下したという形もありかな?
499 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 21:30:01.10
>>497
それだけいて西方に軍を出せない理由は推測になるんだけど
諸葛亮という人は常に大軍勢を従えて行動していたのではないかと思う

だから反面、何時も兵糧不足に泣くのだけどね
500 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:21:22.41
>>497
>また陳倉にそこまでの価値があったとすれば,
>なぜ諸葛亮はこの時以外狙わなかったのでしょうか。
数万の兵を持って千余の兵が篭る城を落とせなかったから
攻略に時間がかかれば東西から挟撃を受けかねない
良く言えば慎重の孔明らしい戦略
501無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 00:19:33.67
陳倉を狙わない理由は武都が落ちたからだと推測してる

陳倉を確保すれば隴右は落ちるけど武都が落ちていれば
陳倉を落とさなくても隴右へ直接的に攻撃できる
陳倉の戦略的価値は武都陥落で格段に下がるよね

直接攻撃出来るなら関中に近い陳倉を山越えて攻撃を仕掛けなくてもよくなる
陳倉攻撃は察知されると散関封鎖のリスクが常にある
隴右を狙えるようになれば陳倉は狙わなくても何とかなるだろう
502無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 02:32:37.24
>>501
北伐の目的とは何ぞや?
503 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 03:12:32.66
>>502
魏の征服ですな

それ以外の目的は不明
504無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 06:21:47.92
>>496
普通は何かある、も何も魏はそう思いませんでした。
第一次も陽動に引っかかりましたけど、それは別働隊による陽動に引っかかったわけで
今回は諸葛亮軍本隊による戦略的陽動策でした。
確かに、「同じ手」には引っかかってないですね。別の陽動策に引っかかっただけでw

第2次北伐は12月に陳倉を囲んだ、とあるので、その包囲が20数日に及んだ、と史書に
ある通りなら、そこから漢中に帰るまでにはもう次の年、つまり春になってますね。
そこから2か月足らずで陽動策の効果によってあっさりと攻略したわけですね。
これだけの連動性を偶然とするにはとてもとてもw
>曹丕期の太守楊阜が郡治を関中に遷したから,ほとんど機能していなかったのでしょう。
負け惜しみ極まれりですなw 楊阜は武都郡の統治が優れていた事が認められて
栄転したのですがw栄転する程に優れた統治が行われた土地が機能不全とか
負け惜しみにしてもひどすぎるかとw
>さらに離れた陰平郡に至っては,太守任官者すら分かりません。
それいったら、魏の明帝時代の大半の地域の太守任官者は不明ですけど、
貴方の中では魏は明帝時代に大半の領土を放棄してたんですかww
諸葛亮に翻弄されたのを認めたくない気持ちはわかりますが、
さすがにそれはどうかと思いますよww
505 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 11:11:28.22
北伐は国策みたいなもんですし
漢を名乗ってる以上やらなきゃ国の存在意義自体が揺らぐ
506 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 11:37:14.23
呉が合肥攻略し魏を倒したら笑えるんだけど
失敗続きの諸葛亮・・・
507 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 12:29:36.93
>>496
史書では春の出来事としている事柄に対して、「長引いてる可能性がある」とする理由もなく、
ただ「限らないと言ってるだけで」はもう通らないよ。
貴方は「終わってるとは限らない」と言って、断定を避け、お茶を濁してるつもりで、
自分は間違ってないと言いたいのかもしれない。
けどそのお茶を濁すような言動にさえ全く根拠がないんだ。
これが「史書には○○とあるけれども、○○が実現するには□□が必要なのに、△△になっていた」とか、
史書に書いてある整合しない部分を理路整然と検証するのならまだわかる。
理解するために言い分にも耳を傾けようと思う。
でも、貴方の場合、相手の主張に対する反論のための反論で
しかも、それが「かもしれない」と貴方が思うから、というだけの言葉を平然と繰り出して、
最終的に出るのが「限らないと言っているだけ」という暴言。
そこが議論に対して全くもって不誠実で、僕は非常に問題だと考えてる。
貴方は自分に対して問題意識はあるのか?と強く問いたい。
508無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 21:59:32.47
>>498
私は陳式は第2波又は陳倉奪取後の交代要員として控えていたと思いますが,
補給部隊を率いていた可能性は十分にあるでしょう。
攻略順は武都→陰平でいいと思います。
念のため諸葛亮を支援することも想定していたでしょうから。

>>499
他の北伐はそうでしょうが,第2次北伐だけは違うと思います。
東に目を向けた曹魏側の隙を突くのが最優先で,とにかく急ぐ必要がありますから。

>>500
第4次北伐以降はそのとおりでしょうね。
第1次北伐は,箕谷から距離が近かったから避けたのでしょうか。

>>501
>>496で触れましたが,諸葛亮は第1次北伐で武都に手を出しませんでした。
天水郡の反乱で追撃されるおそれなんてまずないのに,帰りも素通りしました。
武都なんてなくても隴右攻撃は可能でした。実際に第1次北伐できたのですから。
509無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 22:01:19.58
>>504
あなたの言う陽動作戦とやらは,
>2郡を奪うだけなら,最初から陳式と諸葛亮(と故道を抑える部隊)を同時に出せば事足ります。
に答えられなければ何の意味もないと思いますが。

>負け惜しみ極まれりですなw 楊阜は武都郡の統治が優れていた事が認められて
>栄転したのですがw栄転する程に優れた統治が行われた土地が機能不全とか
>負け惜しみにしてもひどすぎるかとw
訂正してお詫びします。曹丕期どころか曹操期(後漢末期)でした。
>及劉備取漢中以逼下辯,太祖以武都孤遠,欲移之,恐吏民戀土。
>阜威信素著,前後徙民、氐,使居京兆、扶風、天水界者萬餘戶,徙郡小槐里,百姓襁負而隨之。
>為政舉大綱而已,下不忍欺也。文帝問侍中劉曄等:「武都太守何如人也?」
>皆稱阜有公輔之節。未及用,會帝崩。在郡十餘年,徵拜城門校尉。
(三国志巻25楊阜伝)
徙民と流民の違いはありますが,南朝の僑郡のようなものでしょう。
510無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 23:22:48.19
>>508
隙を突くのが最優先だから軍の規模が下がったというのは難しいと思う
カク昭について述べた注釈文が明帝紀の太和二年にあるんだけど
そこによれば諸葛亮が率いてきた兵士は数万人とのこと
「数万」って時は2-3万ではないし9万まで行くとちょっと多すぎだろう
5~7万くらいが妥当な数だと思うけどこれだと張コウらが3万率いて来たとしてもまだ不安だよね
511 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 06:28:34.66
>>509
とっくに答えらえてると思いますが。
普通だったらカクワイが来て、時間を稼いでる間に魏の援軍が来ちゃう、って。
そうやって都合悪い所を無視して発狂するのやめない?
>>507の人もあんたのそういう姿勢に対して苦言を呈してるんだけど、
完全スルーなのはどういうわけ?さっさと答えてやったら?
結局、あんたは自分に都合悪い所はスルーして
自分が論破されそうになったら、論破された事柄を持ち出して混ぜ返して
延々と最後にレスする事に粘着してるだけ。

あのねー、自分で出してる漢文の内容を本当に読めてんの?
何が曹操時代だって?楊阜は武都の太守を見事に勤め上げ、その評判を聞いた
文帝は中央に召喚して用いようとしたけど、文帝がその前に死んでしまったから
果たせなかった、それで結局10数年も郡を統治して、明帝時代に城門校尉になった、
とかいてあるわけで。あんたのご推奨の楊阜さんは明帝時代にまでずっと武都の太守やってた
事が明白なわけ。で、あんたは曹操時代や文帝時代出して一体何がいいたかったの?
漢文読めずに意味を誤解して自爆したとかそういうオチじゃないよね?
とりあえず、スルーしてる事柄をさっさと答えてもらえる?
512 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 11:17:24.33
まぁスレチなんだけどね、それ以前に。
513無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 21:07:06.03
司馬は蜀との戦いを楽しんでた感じだからなあ。
だから一線級ばかりでなく時々王経や王カンみたいな三流武将を送り込んで花を持たせてやってた。
最も最後は姜維がウザくなったのか、ちょっと強めに攻めたら楽しむ暇もなくあっという間に滅んでしまった。
司馬昭も蜀のあまりの雑魚っぷりにがっかりした事だろう。
514無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 21:35:44.26
懿もわざと張コウに追撃命令した感じだし
魏の戦力100%対諸葛亮に使えば秒殺じゃん?
515 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 21:42:56.44
>>513
さすがにそれはありえないわw
司馬懿本人が挑んで敗北し、張コウ使って追撃させたら戦死させられ、
他にも何人もの武将が蜀との戦いで敗北してるのに、
それで花を持たせてやってたとかw
魏オタの負け惜しみもここまで来ると立派だな
516無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 23:02:48.25
>>510
陽動説に立たない限り,カク昭等は一定期間実際に諸葛亮を防いだわけですよね。
陳倉には諸葛亮の「数万」を防ぐことが可能な戦力があったわけです。
王双が図に乗って失った戦力がどれだけあったかは分かりませんが,
少なくとも3万以上の援軍をもらって不十分ってことはないでしょう。

>>511
確かに私の漢文読解レベルなんてたいしたものじゃありませんが,
>及劉備取漢中以逼下辯,太祖以武都孤遠,欲移之,恐吏民戀土。
>阜威信素著,前後徙民、氐,使居京兆、扶風、天水界者萬餘戶,徙郡小槐里,百姓襁負而隨之。
これを読んで楊阜が人々とともに武都郡を離れたことを理解できないほど馬鹿じゃありません。
まさか京兆や扶風が武都郡内にあるとでも思っているのですか?
それとも百姓が「随」したのが楊阜以外の誰かだったと思っているのですか?
517 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 23:05:57.60
>>516
一部文字化けしましたが,
前者が異民族のテイ(氏に似た字),後者が戸です。
518無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 23:40:33.42
>>516
陽動説であってもカク昭は一定期間実際に諸葛亮を防いだと言うことでいいと思う
諸葛亮の陽動というのはどちらかが虚でどちらかが実という作戦ではなく
両方実でどちらかが成功すればいいという形で進行してると考えられるからね

次に陳倉では諸葛亮の数万を防ぐことが可能な戦力があったというのは結果論でしかないだろう
千人余りの人数で守っていたということは諸葛亮が数万で攻めて来たのと同じ箇所に書いてあることで
また曹叡はこのカク昭の奮迅の働きに喜んで詔勅まで出してその守備を褒め称えて爵位まで与えている
結果的に可能にはなったけど一般的に見て普通ではまず守れない状況だったからこそだと考えられる
3万の援軍で不十分ということはないと思うかもしれないが
魏では上でも書いたように翌年まで陳倉に釘付けになってしまっていた
不安だからこそ陳倉に張り付いて武都を見捨てる形になっていたのではないか?
519無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 00:44:34.60
>>514
最後の蜀攻めでちょっと本気出せば瞬殺なのは証明されちゃってるもんなあ
司馬昭もまさか自分が成都に入る前に滅んじゃうとは思わなかっただろうよ
520 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 06:21:41.74
>>519
最後の蜀攻めでも主力軍は蜀の主力軍に防がれて撤退を検討する始末。
さらには鄧艾すらも手薄なはずの成都方面に侵攻しても敗北して
部下が「勝てません」と言い出す有様w
これで瞬殺とか負け惜しみにしても酷すぎだなww
521無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 06:32:31.99
>>516
いや、馬鹿でしょ。
その下にはっきりと武都の太守を楊阜が明帝時代まで務めた事が書いてあるわけで。
単に曹操からいくらか移住させろ、という命令が出て、楊阜がそれに従って移住させて
また武都に引き返して統治してる、ってだけの話にしか見えませんが。
貴方の中では命令を受けて住民を他の地へ移送した人間が、赴任地に引き返さずに
そのままそこに定住しなけりゃならないんですか?張コウとかも似たような事やってますが
普通に何度も赴任地と移送先を往復してますが、貴方の中では楊阜が明帝時代まで
武都を統治した事が明白に書かれてるのに、武都に楊阜がいなかった事になってるんですか?w
さすがにそれは漢文読解以前の問題かとww
522 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 06:33:26.08
>>516
ていうか、貴方は>>507の人には答えてやらないの?
都合悪い所はスルー?
523無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 08:57:11.66
>>519
全くですな
524 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 10:31:30.87
蜀って討伐命令出てから一年持たずに滅んでるんだな
これじゃ瞬殺と言われても仕方ないかもね
525 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 11:55:43.60
だって呉や北にも戦力を費やさないといかんからな
526 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 18:43:00.53
>>523
自演乙w
>>524
それまでずっと魏が負けまくってて
何度も攻め込んだり、攻撃したりしても敗北を繰り返してる状態で
40年以上継続されて、さらには蜀より先に魏が召使300人程度しか動かせない
傀儡国家に成り果てて終了してたのスルー?
蜀より先に魏が終了してますwというか召使300人で殺された魏の皇帝はまさに瞬殺でしたな
527 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 21:20:35.54
キモッ
528無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 21:30:06.20
>>518
>諸葛亮の陽動というのはどちらかが虚でどちらかが実という作戦ではなく
雍州を分断可能な陳倉攻略と,辺境2郡の攻略が同等だと本気で思っているのですか?
この後の経緯を見れば明らかでしょう。
曹真等は関中及び荊州から直に漢中を目指しました。諸葛亮も漢中から直接北伐を実施しました。
後の曹爽の征蜀も関中から漢中を目指し,王平は漢中で守って見せました。
2郡が最前線として機能しだしたのは姜維が軍権を握ってからです。
曹魏の統治が浸透して扶風や天水には手を出せなくなったから,さらに西方に出ざるを得なかったのでしょう。
少なくとも諸葛亮本人は,2郡なんて(この時以外)全く相手していないのですよ。
だからこそ,第1次北伐で無視したのでしょう。

(振る相手が違うのは分かっていますが。)郭淮の立場に立って考えて見ましょう。
曹休が石亭で大敗した挙句くたばって,戦力を東方に持っていかれました。
曹魏の「五都」長安を空にするわけにはいかず(曹真がいましたが。),
かといって曹真が目を付けた陳倉を重視しないわけにもいかず,
前回攻められた天水郡に残されて様子を見ていたわけです。

そこに関山道経由で蜀漢軍が動いたらどうしますか?
とりあえず関山道の出口か祁山を塞ぐでしょう。その方が迎撃しやすいですから。
まさか前回素通りした武都郡を奪いに来るなんて誰が思うでしょうか。
529無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 21:30:43.34
>>521
あんまり偉そうだからさすがに知っているのと思っていたのですが,
一度「僑郡」って言葉を調べてみたらどうですか?
>また武都に引き返して統治してる、ってだけの話にしか見えませんが。
こんなこと言っているようじゃ理解できないでしょうが。

あと小槐里って長安と五丈原の間に比定されています。
(『三国志集解』や譚其驤『中国歴史地図集第三冊』をご覧ください。)

自演バレバレだから放置していましたが,>>507にも答えましょうか。
>貴方は自分に対して問題意識はあるのか?と強く問いたい。
第2次北伐が第3次北伐の陽動だなんて戯言を否定しているだけです。
あなたみたいに都合の悪いことは「妄想」で全てを片付けられるようなエスパーとは違って,
私のような凡人は1レス1レス答えていくしかないのですよ。
530 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 21:57:46.14
何でもかんでも自演に見えるようじゃ終わりだな
まぁID無い板だから仕方ないね
531無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/24(水) 22:07:58.63
>>528
武都についての戦略的価値を見誤り過ぎてる
武都は重要で蜀から関中を経由しないで魏の涼州方向への侵攻はここを通るしかない
また涼州において貴重な人口の集中した土地でもある

第一次北伐において武都を完全スルーできたのは
南安、天水、安定という武都の北側にある三郡が諸葛亮に呼応したから
逆に武都が孤立して組織的な抵抗もできず諸葛亮の通行さえ止められなかった

関山道経由で蜀が動いたら出口か祁山を塞ぐという判断を郭淮は行わなかったと考えられる
諸葛亮伝には郭淮が陳式を撃退しようと試みて出撃したところで
建威に諸葛亮が現れたために撤退をしている
この時の郭淮の位置はわからないが陳式を撃退するために兵を率いて前進していたこと
建威に蜀が現れたために撤退に追い込まれたことを勘案すると
建威と武都・陰平の間のどこかに出撃していた可能性が高い

祁山を抑えているのであれば祁山に拠って建威から北上してくる蜀を迎え撃てる
関山道の出口を押さえているのであればやはり建威へ向かってくる蜀に対応する事が出来る
武都を狙いに来ないというのは逆に当時の人の思考をトレスしているとは考えにくい
532 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 09:31:14.70
>>529
相変わらず上から目線で語ろうとする癖に、いう事が抽象的すぎて笑えるww
貴方の妄想と願望ではなくて、いいたい事があるなら具体的に記述と根拠で示してもらいたいですなw
まあ、無理でしょうがw
貴方の出してる記述でしっかりと文帝が武都太守である楊阜の優れた統治を聞き
「武都太守ってどんな人?」と周囲に聞いて、周囲から「宰相になってもいい位の節義を
持った人ですよ。」と答えられている事がはっきり書いてあるのに、
貴方の中では武都に楊阜がいなかった、とでもいうんですか?w
さらに明帝時代の記述として「楊阜が10数年にわたって武都太守を務め、
明帝時代に城門校尉に栄転した」とも書いてあるのに、貴方の中では武都に楊阜が
いなかった事になってるんですか?w本当に漢文読解以前の問題で笑えるんですがww
貴方が必死こいて執着してる住民移住ですが、張コウとかも似たような事してますし、
しかも移住を終えた後は普通にもとの管轄部署に戻ってるのも同様なんですが、
貴方の中では一回移民をさせたらもう戻ってこないんですか?w
歴史記述が食い違いまくる素敵な解釈だと思うので、早く記述と根拠をつけて、
整合性をちゃんとした解釈を行ってみてくださいw絶対無理だと思いますがw

とりあえず、貴方が曹操時代に既に楊阜が武都からいなかったというなら、
それを示す記述と、文帝時代と明帝時代に明白に楊阜が武都に駐屯してる記述との整合性を
早くつけてみてくださいw
ああ、貴方が必死こいてる住民の一部移住なんて何の根拠にもならないですからね?w
問題になるのは、武都において楊阜が明帝時代まで明白に滞在してる記述があるのに、
貴方がいないと言ってる以上、貴方が他所の地に楊阜がいたという記述を出す事なんですからね?w
絶対無理だと思いますけど早くやってみだくさいww妄想と願望はいいから記述よろしくww
都合悪い所をスルーしまくって逃げ回り、ピンチになったら論破された論旨を混ぜ返して
最後にレスする事に執着する貴方のやり口は知ってますから、じっくり聞いていきますが、
まずはこれから答えてくださいねww

ああ、それから>>507については完全な別人ですのであしからずww
文体まったく同じでバレバレの貴方と違って私はそんなことしてませんので
悪しからずww
都合の悪い事?貴方の論旨でどこにそんなものがありました?
実際に貴方の言ってる事は記述も根拠もろくになく、貴方が魏最高をもとにして
結論ありきで作り上げてる妄想であるから、妄想だと言ってるだけで
都合の悪い事をスルーして逃げ回り、言われて悔しかった事を必死で
相手に押し付けようとする貴方とはまるで違うって事をご理解頂きたいですなww
533無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 23:12:38.47
>>531
武都郡は後漢永和五(140)年の戸数約2万から,西晋太康年間(280~289)には3千にまで激減しています。
約2万7千戸だった漢陽郡(後の天水、南安、略陽3郡)は,合計で約2万2千とそれほど減っていません。
地勢的には意味があったでしょうが,戦略的価値は大幅に減少していたのです。
華陽国志漢中志は,楊阜の徙民策と双方の軍事行動で郡が荒廃したとします。
漢中を失った曹魏側が維持できる状況ではなかったのでしょう。

>第一次北伐において武都を完全スルーできたのは
>南安、天水、安定という武都の北側にある三郡が諸葛亮に呼応したから
>逆に武都が孤立して組織的な抵抗もできず諸葛亮の通行さえ止められなかった
3郡が呼応したのは諸葛亮が祁山まで来てからですので,時系列が逆です。
武都郡が動揺しなかったのは,するだけの人がいなかったからでしょう。

>関山道経由で蜀が動いたら出口か祁山を塞ぐという判断を郭淮は行わなかったと考えられる
>建威と武都・陰平の間のどこかに出撃していた可能性が高い
曹魏側にとっては天水郡の方が重要です。個別撃破の危険を冒してまで山を越えるでしょうか。
ただでさえ東方に戦力を取られていたのに。
そして曹魏側から見た関山道は天水郡~祁山~建威~武都郡~漢中郡です。
素直に救援に向かった郭淮の前に諸葛亮が現れたと理解すればいいでしょう。

>祁山を抑えているのであれば祁山に拠って建威から北上してくる蜀を迎え撃てる
せいぜい迎え撃つことくらいしかできないから諦めたのではないでしょうか。
534無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 00:59:28.38
>>533
武都の人口に関しては一万戸ほど曹操によって移住させられた記録があるけれども
後漢の戸籍からそれを差し引いてもまだ一万戸は残っている計算になる
この時点ではまだ涼州の少ない人口密集地として魅力的ではなかろうか
ただし、曹操のことだから恐らくはその一万戸というのが当時の武都の総数に近い数字だったのかもしれないから
三千戸しか残さなかったという話で進めた方が間違いないだろう
人口については俺の認識が間違っていたということでそこは申し訳ない
それでも蜀は武都から後年四百戸を移住させているので蜀も人口減少には恐らく一枚買ってるとは思う

しかし武都が動揺しなかったのはするだけの人がいなかったからというのは不適当だと考える
時系列でも「諸葛亮が祁山に出てから三郡が呼応した」というのは不適当であると主張する
というのも明帝紀に引く魏略で時系列が書いてあって「まだ諸葛亮がどこにいるのかわからない時」
曹叡は「諸葛亮は三郡を目指して進むことしか出来ない」ともう既に三郡を諸葛亮が後は接収するだけという形になっており
諸葛亮の軍事行動は大規模で祁山に出る前から周辺を脅かしまくっている
諸葛亮伝に引く魏略では、諸葛亮が動いただけで祁山、隴右まで動揺している
後背地が動揺、もしくは反乱している状況で武都は完全に孤立してしまって組織的防衛が不可能ではないかな?

資治通鑑においても同様で、諸葛亮は狙いが関中のビであると喧伝して
趙雲を派遣した頃で本隊がどこにあるのかわからない段階でも
群臣がおろおろして三郡が既に靡いていると言っているよ
535 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 01:32:57.72
>>533
>>534の続き
天水郡がより重要ということには同意する
でも個別撃破の危険を冒さないということには同意しない
というのも郭淮は武都にいる陳式を攻撃するために出撃しているから
武都の陳式を攻撃するには山を越えないといけない
既に攻撃を決断した時点で山越えも決断しているということになる

行く途中で諸葛亮に遭ったから引き返したという事は妙だと思う
諸葛亮は数万人率いて年明けに陳倉から引き返し
そこから建威に到達する行軍を行っているのに
武都を救出しようと出撃した郭淮が行き道で諸葛亮に出会うというのは
いくらなんでも郭淮が遅いか諸葛亮が早すぎやしないだろうか?

諸葛亮本隊を迎え撃つ事が出来れば、陳倉を固守している味方から増援が来るアテはあるのだから
迎え撃つくらいしか出来なくて結構ではないかな?
536 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 17:49:00.30
>>533
おーい、>>532への返答がないけどどうしたのー?
537無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/26(金) 20:33:32.38
キモッ
538無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 18:39:29.35
>>534,>>535
確かに人がいなかったというのは不適当かもしれませんが,
諸葛亮が祁山に出てから三郡が呼応したことは三国志本文に記されます。
>諸葛亮圍祁山,南安、天水、安定三郡反應亮。(曹真伝)
>亮身率諸軍攻祁山,戎陳整齊,賞罰肅而號令明,南安、天水、安定三郡叛魏應亮,關中響震。(諸葛亮伝)
あなたが挙げる明帝紀注引『魏書』(魏略としたのは勘違いでしょう)では,
>是時朝臣未知計所出,帝曰:「亮阻山為固,今者自來,既合兵書致人之術;且亮貪三郡,知進而不知退,今因此時,破亮必也。」
とありますが,「未知計所出」はちくま訳のとおり「対処方法が分からなかった」という意味でしょう。

>既に攻撃を決断した時点で山越えも決断しているということになる
これはあなたの言うとおりでしょう。しかし,決断した時期が問題になります。
前回の状況を考えれば,郭淮は蜀漢側が再び天水郡に来ると判断したでしょう。
ですから郭淮は,迎撃に有利な天水郡内で迎え撃とうとしたのでしょう。
陳式が途中で武都攻略を始めて,ようやく敵の目的を理解したのではないでしょうか。
そしてあわてて武都まで向かおうとして,後詰で来た諸葛亮に前を塞がれたのでしょう。
>迎え撃つくらいしか出来なくて結構ではないかな?
他の道よりマシとはいえ山の中,増援を待っている間に陳式の2郡攻略は進みます。
郭淮に諸葛亮を破るだけの自信がなければ,諦めるしかなかったのですよ。
539 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 20:37:09.25
>>537 >>538
おーい、そんなことより>>532にさっさと答えてくれよ~
都合悪い所から逃げないでくれよ~
540 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 03:25:02.45
ポンコツ
541無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 06:39:32.21
>>538
申し訳ない
諸葛亮伝が魏略、明帝紀が魏書だね

諸葛亮伝、曹真伝に関しては時系列を述べたのではなく
単に「諸葛亮が祁山に出た」ということと「三郡が諸葛亮に呼応した」ということを併記しているだけで
時間の前後関係を示す文章ではないよ
542無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 16:05:44.84
>>541
魏略や姜維伝でも,
>會聞亮已到祁山,淮顧遵曰:「是欲不善!」遂驅東還上邽(ケイ)。(姜維伝注引魏略)
>太守聞蜀軍垂至,而諸縣響應,疑維等皆有異心,於是夜亡保上邽(ケイ)。(姜維伝)
と,諸葛亮が祁山に到着(又は接近)した時点で天水郡では巡察が行われており,
そこで蜀漢側の襲来を知って混乱し始めています。

そもそも,天水郡がそんなに早くから動揺していたとすれば,
郭淮や馬遵等が平気で巡察を続けられるわけないじゃないですか。
これも,曹魏側は諸葛亮が祁山に来るまで状況を把握できなかった,
すなわち武都郡がなかば放棄されていたことの傍証になるでしょう。
543無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 17:31:48.91
>>542
天水郡は降伏したと言ってもその後で各県などは諸葛亮に攻められている
「一郡が降伏した」という言葉のイメージで勘違いしているのだろうけども
全ての城が一気に降伏するなんて都合のいいことはなく降伏したところ、しなかったところあった
ちょっと場所は離れるが隴西太守游楚のように抵抗する人もいた
隴西は祁山に諸葛亮が出る以前から甚だ動揺した土地として祁山と並んで挙げられてるように
動揺の伝達というのは非常に速い

天水郡も早くから動揺して離反している部分が出るから巡察する
離反を試みる不届きな輩が出ないようにね
544無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 22:14:25.08
>>543
素人ですから拙いでしょうが,仮にも史料を提示して説明する相手に対して,
反証も出さずに勘違い呼ばわりとは失礼ではありませんか。
いいかげん時系列の矛盾を認めたらどうですか。
(まあこれを認めたらあなたの主張そのものが崩壊するでしょうが。)

確かに情報の伝達速度は(3世紀の昔とは言え)決して侮れません。
しかし,私みたいに武都郡が放棄されていたとでもしない限り,
蜀漢側の侵攻が最初に伝わるのは天水郡ではなく武都郡でしょう。
(武都郡の方が蜀漢側に近く,肝心の関山道も間を通っているのですから。)
なぜ武都郡よりも先に天水郡その他が動揺したのでしょうか。

>天水郡も早くから動揺して離反している部分が出るから巡察する
動揺が始まったら巡察でどうにかなるはずないでしょう。
545無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/04/30(火) 23:37:29.98
>>544
諸葛亮伝の魏略には劉備が死んだ後全然警戒してなかったので
諸葛亮の北伐開始というだけで魏は大混乱、隴右、祁山は特に混乱
三郡も同時に諸葛亮に呼応したと書いてあり
諸葛亮が攻め込む以前に出撃の報が出た段階で既に魏では恐慌状態が起こっている
546無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/02(木) 22:17:30.49
>>545
私は根拠として三国志曹真伝、諸葛亮伝、姜維伝および姜維伝注引魏略を提示しました。(>>538,>>542
あなたはそれを無視して時系列があいまいな諸葛亮伝注引魏略に固執されるようですが,
特に諸葛亮が祁山に来てから事態が動いたと明記する曹真伝と姜維伝注引魏略を否定できる根拠は何なのでしょうか。
>>541は何の回答にもなっていませんよ。祁山に来てからとする史料の方が多いのですから。
正直あなたが諸葛亮(およびあなた自身)に都合の良い解釈をしたがっていることを露呈しているに過ぎません。

あと繰り返しますが,北に位置する隴右や祁山が特に混乱していたとするのに,
その手前で最初に攻められるはずの武都が混乱しなかったことをどう説明するのですか。
前から敵の大軍が来て,しかも後方が造反しているような状況で,
降伏も逃亡もせずにただじっとしていたなんて話誰が信用するのですか。
547無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 01:37:10.43
>>546
それ根拠にしても意味がない
曹真伝、諸葛亮伝は同時期に起こったことを並列的に書いてあるだけ
前後関係について述べられたものではない
「諸葛亮が来てから内応者が出た」じゃなくて
「諸葛亮来寇」という事件において「内応者がいた」という文章だよ

姜維伝では諸葛亮の軍が祁山に向かった段階で巡察開始
太守の元に接近の報が届いた段階では県が太守無視して投降した後
というのが姜維伝に書いてある通りの時間
姜維伝注釈に引く魏略では諸郡県の投降がいつかということが書いてないので時系列に関係して来ない

資治通鑑では諸葛亮が軍を起こしたという報告が有っただけで三郡が裏切ってる
548無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 09:40:03.60
>>547
そういえば諸葛亮伝注引魏略は出していませんでしたね。
>始,國家以蜀中惟有劉備。備既死,數歲寂然無聲,是以略無備預;
>而卒聞亮出,朝野恐懼,隴右、祁山尤甚,故三郡同時應亮。
(時系列に関しては資治通鑑魏紀3も同じ)
確かに諸葛亮が出てきたと聞いて混乱していますが,どこまで「出」た段階で聞いたかは分かりません。
しかし隴右、祁山が一番混乱したのですから,普通に考えればその入口(祁山)に近付いてからでしょう。
だって陽動作戦に成功した以上,まさか漢中出発時から知られていたとは到底考えられませんし,
何度も言うとおりその手前にある武都、陰平は混乱したとされないのですから。
ですからこの記事と,曹真伝その他の記事は別に矛盾しません。
蜀漢側が関中を目指すという宣伝を信じて油断していた隴右各地が,
いきなり祁山まで来たことを知って大混乱に陥ったのでしょう。

>曹真伝、諸葛亮伝は同時期に起こったことを並列的に書いてあるだけ
>前後関係について述べられたものではない
いくら何でもこれはないでしょう。時系列を記した記事として不自然な点はないのですから。
どちらも諸葛亮が祁山を攻めた結果,3郡が呼応したと素直に解釈すればいいでしょう。
たとえそれがあなたにとってどれだけ都合が悪かったとしても。
549無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 12:33:01.80
>>548
安定郡に近付くのは馬謖らの率いる先遣隊が街亭に行ってからだけど
安定郡の呼応はそれより遥か以前だし「近付いたから混乱した」というのは正しくない
近付いてないけど混乱した場所、裏切った場所というのは存在しているというのは
祁山を例に出さずとも安定郡が呼応したことで証明されること

「自然に解釈」というけど三国志の本文でその「自然に解釈」したら間違うのは他の事件でもある
ちゃんと丹念にいくつもの記事を当たって時系列を整理してないと
その自然な解釈によって事件が読み取れなくなるよ
550 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/05/04(土) 20:53:10.96
泣いて馬謖を斬る
551 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 10:21:18.96
劉備ババアなんてトップじゃなかったら何度斬られてるか分からん。
曹操や孫権の恩情のおかげ。魏にも呉にも使い走りして、背くんだから、
油断できない本物の梟雄はこいつ。
552無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 21:42:03.78
劉備は性別男だけどババアって何
553 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 21:43:21.54
そもそも曹操だって袁紹の恩情受けてるし、後に背いたのも同様。
孫一族も袁術の庇護を受けてたし、後に背いたのも同様。
554無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 02:34:24.58
今上を見捨てて他の皇族を推戴しようとした袁紹
漢朝を見捨てて皇帝を僭称した袁術
決別の大義名分は成り立っている

命惜しさに方々で恩知らずに背いた劉備とどこが同様だか
555無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 08:38:39.47
>>549
対蜀漢の最前線であった祁山が奇襲されて,安定郡が動揺するのは不思議ではありません。
しかしあなたが思うように,漢中を出ただけで動揺するなんてあり得るのでしょうか。
あなたが重んじる諸葛亮伝注引魏略には,曹魏側は蜀漢には劉備しかいないと思っていたとされます。
宰相としてはともかく,司令官としての諸葛亮なんて恐れるような相手じゃなかったのですよ。
北伐で初めて名将と認められた諸葛亮に,北伐開始時点で相手を動揺させる怖さなんてありません。

>「自然に解釈」というけど三国志の本文でその「自然に解釈」したら間違うのは他の事件でもある
>ちゃんと丹念にいくつもの記事を当たって時系列を整理してないと
>その自然な解釈によって事件が読み取れなくなるよ
あなたはどうやって史料から時系列を整理されたのですか。
どう見たって「諸葛亮が北伐を始めただけで曹魏側が動揺した」という思い込みを前提として,
それに抵触する「諸葛亮が祁山に来てから曹魏側が動揺した」記事を否定しているだけでしょう。
とても丹念にいくつもの記事を当たったとは思えないのですが。
もし違うというのでしたらちゃんと説明してください。
「未知計所出」を「居場所が分からない」と言う人に史料が読めるのかは甚だ疑問ですが。
(誤訳も指摘されますが,せめてちくま訳くらい読んでみたらどうですか。)
556無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 09:49:56.17
>>555
対応策が出せない、その理由を考えればわかること
趙雲がビを攻撃しようとして蜀もそう宣伝してる
諸葛亮本隊はどこに行くのかわからない
そんな状況だからだね

諸葛亮がどこを狙っているかわからないから限られた兵では対策も立てようがない
そこで曹叡はとりあえずで長安に張コウ付けた5万、ついでに親征で素早い裁可を可能にして
相手が何しようと対応できる体制を構築した、というのが第一次北伐の流れ
557無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 09:59:03.08
>>552
立ち居振る舞いが中性的。曹操に捕われながら、釈放されたのは、関羽や張飛といった
一騎当千の武を見込んで、劉備ともども配下にしたいと思ったから。孫権における、
周瑜も曹魏包囲の天下二分で、関張を陣営に加える構想を立てて、呉に来た劉備を
懐柔する事を進言している。劉備の組織統治は、手腕や能力によって抑え込む父権的
ではなく、その対比として、ババアだなと呼んだ。

>>553
劉備の場合、助けが無ければ、滅んでいたから、曹操や孫堅・孫策とは違うくないか。
傭兵隊長だから、付くも裏切るも金や権力、状況次第というのは、いくらなんでも、
大義を売りにする劉備にして、汚過ぎる。

>>555
セミプロさんには悪いけど、曹操が不在で、初めての大戦だから、曹丕らがびびったという
事ではないですか。関羽の北上ほどの迫力はありませんけど、それは、首都に近い荊州ではなく、
漢中からの進軍で、一度や二度敗れても、長安に撤退できるという、戦略上の有利があって、
動揺しなかったという事でしょう。戦争全体の把握ではなく、戦術であったり、個々の技術は、
身体能力ではなく、言語能力によって、決せられると思いますが、諸葛亮が、張郃であったり、
魏の名将を破っている事からも、宰相としての実務能力が、軍才に及ぼす影響は大きいと思います。
文官として有能でも、軍事無能というのは、文人や論評の才人で、政治の実務家ではないと思います。
558 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 17:53:05.52
>>554
もともと献帝は袁紹の一族を皆殺しにした董卓が擁立した皇帝であって
袁紹としてはそれに反発する理由が十分にある。
袁術がそうだというのなら、劉備だって漢の逆臣たる曹操を討つ、という大義が
あるので決別の理由は十分すぎる程。

命惜しさに~とか言ってるけど、そんな理屈でいうなら劉備は曹操につくはずだろ。
わざわざ曹操の敵対勢力に回ったのは、十分に劉備の意志が伺えるな。
559無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 17:54:50.78
>>555
おーい、横から悪いが、正史を読める云々と随分と調子に乗ってるみたいだけど
それならお前が完全に正史の漢文読解を間違えて自爆してる件についての>>532
レスにさっさと答えて記述出してくれよ。
正史読めるんだろ?さっさとしろよ~
560無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 17:59:40.02
>>557
別に劉備自身の英名も随分と高いぞ。当時から。
というか、別に劉備は曹操に捕らわれてないし。

徐栄に大敗して千人程度の小勢力として漂ってたのを
袁紹のオファーで太守、さらにはエン州刺史のきっかけをもらって
勢力保証してもらったのに、そりゃないわ。
孫策に関しても孫堅が死亡した後は自分で兵を募ってうまくいかず、
結局袁術のもとにいって庇護してもらったのがスタートだから、
恩義が無いとかいうのはおかしいだろ。
561無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 18:23:28.29
>>560
何だかんだ言って、名門が強いという事か。袁家の時代もあったのだから、
献帝を擁立する前の段階の権威で、袁家が曹操や孫家に利用されたという見方もできるよね。
袁の威厳に関わるから、袁紹は袁の意向を含ませた劉虞を擁立しようとした。
袁術は、劉家に取って代わる即位によって、袁の声望を増そうとした。
劉備の英名は、関羽・張飛の活躍で立てられていて、強力な傭兵隊を率いている
事が、劉備の処世を助けたのではないのか。朝廷復興とか言い出すところとか、
袁を踏み台にして、その上で献帝に行き着いた曹操と違って、いかにも田舎豪族という
感じを受けるが。
562無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 18:57:15.88
>>561
実際は曹操は袁紹に対して献帝擁立後もかなーり気を使ってる。
曹操は献帝擁立後も袁紹に高い位を送って機嫌をとってるし、
袁紹の高圧的な態度に「私は袁紹を払いのける事が出来ない」と嘆く曹操を
参謀が「今はそのままで、勢力を拡大していきましょう」と諭したりしてて
その関係はかなり明白。袁一族を踏み台とかとても言えたもんじゃない。

劉備の英名は劉備個人に向けられたものがかなり多い。
大抵は「劉備のような英雄の才を持った者が、関羽・張飛を擁するのだから
恐ろしい存在だ」的な感じで語られている。
563無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 20:01:51.49
>>562
実際の兵力以上に、袁と曹との実力差はあったという事なら分かる。
幕府と称する袁紹に、あくまで朝臣という立場の曹操とでは、権力の差があって、
袁紹が劉虞擁立しようとした事が、失点と成らないほどの、権勢が合ったという事?
軍人の袁紹の天下に対して、文学などの曹操の新秩序の形成には、結果的に天下を
取れる勢力にまで成長したから、見るべきものがあるという事で、北方の文人達を
揃えるまでの曹操には、心の余裕が無かったとも言える。
曹操と袁紹との友人関係を毀すだけの、勢力の長としての、立場を気にするところまで
行くのに、互いにまだヘゲモニーを取るところまで行かない勢力であるから、袁紹は曹操を
助けたのであって、曹操は袁紹に出世払いで、借りを返しているが、劉備は不義を不義と
思わせない巧みな政治力があって、それが、劉備の評価に繋がっているのではないかと。
劉備を評価していたのが、陳寿であるのか、名士であるのか、敵であるのかが気になりますね。
曹操陣営では、荀彧が劉備好きだとか、どこかで聞いた気がしますが。
564 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 20:10:48.75
>>563
ええっと、とりあえず正史を読んでから来たらどうですかね。
グーグル検索とかでも結構正史の内容を拾えますから。

袁紹は別に軍人って程に軍人一直線だったわけでもない。
統治者であり、武将であり、勢力の長であり、と。
曹操は袁紹に出世払いで仮を返したといえるのかどうか。
最初に献帝擁立した時は自分に高い位をつけようとしたけど、
袁紹が「俺の上に立つ気か!」と怒ったので自分より高い位を差し出して
機嫌を取ってる状態。

劉備を当時の多くの武将や群雄や名士が評価してる。
それこそ一々数えるのも馬鹿らしい程に。そしてそれらのほぼ全てが
高い評価を与えてる。
>荀彧が劉備好き
ほぼ確実に蒼天とかいう、フィクション漫画の話ですから、
特に気にしないほうがいいかと。
でも曹操陣営の参謀たちが何人も劉備の英雄としての能力を称え、警戒した
言を残しているのは史実。
565無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 21:09:00.60
>>559
>阜威信素著,前後徙民、氐,使居京兆、扶風、天水界者萬餘戶,徙郡小槐里,百姓襁負而隨之。
>為政舉大綱而已,下不忍欺也。文帝問侍中劉曄等:「武都太守何如人也?」
>皆稱阜有公輔之節。未及用,會帝崩。在郡十餘年,徵拜城門校尉。(一応楊阜伝です)
「徙郡小槐里」と明記されて,その後「還」とか「遷」とか他の地には行っていないのですから,
その後の「武都太守としての任務」は「扶風郡小槐里」で行ったと見るべきでしょう。
むしろ「武都郡まで戻った」と言い張る方がそれを立証する必要があるのですが。

>>557
セミプロなんて恐れ多い,2chに書き込むくらいしかできないただの趣味人ですよ。
ただ少なくとも(曹丕と曹叡はただのミスでしょうが),
>曹操が不在で、初めての大戦だから、曹丕らがびびったという事ではないですか。
これはあり得ません。だって諸葛亮が益州に引き籠っている間に曹魏と孫呉は散々戦っているのですから。
曹丕は222-3年,224年,225年と孫権を攻めていますし,曹丕死後の226年には逆に孫権から攻めています。
特に226年の戦役は司馬懿が外に出て軍権を握り,後の魏晋革命につながる重要な転機となりました。

後半については,一般論や北伐が終わった後のこととしては確かにそのとおりだと思います。
しかし私と論争相手がこのレスで問題としているのは第1次北伐当時の話です。
諸葛亮が王双や張コウを返り討ちにし,司馬懿をも撃退したのはあくまでもその後です。
228年春当時の人々にそんな将来のことが分かるはずないじゃないですか。
566無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 21:11:20.04
>>556
早急にレスを頂けるのはありがたいのですが,
>あなたはどうやって史料から時系列を整理されたのですか。
人の質問には答えられないのですか。所詮その程度の輩というのでしたら諦めますが。

群臣が対応策を出せなかったのは,すでに3郡が造反してしまったからでしょう。
(さらに言えば,諸葛亮にここまでできるとは思っていなかったからでしょうが。)

さすがにもう「未知計所出」の解釈を指摘するつもりはありませんが,
いくらどこに行くかわからないと言っても,漢中を出て関山道を進む軍隊の行先なんて,
祁山か陳倉か武都(私はがら空きだったと思っていますが)しかないでしょう。
だったら祁山と陳倉(可能なら武都)を固めれば事は足ります。
何も武都すら突破されていない時点で,後方の3郡が動揺する理由にはなりません。
567無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 21:55:17.41
>>565
漢文読解の件ですが、寝言を言わないでください。
貴方の理屈だと、張コウも住民連れてった後にあちこち移動してますが
貴方の中だと瞬間移動でもしてんですか。
文帝時代にはっきりと「武都太守ってどんな人?」と聞かれてるのに
武都にいないとか、10数年にわたって武都を統治したとあるのに
武都にいなかったとか、そんな滅茶苦茶な貴方の願望妄想を示す記述を
全然出せてないじゃないですか。やり直しです。
ほれ、さっさとしてくださいよ。貴方の願望はどうでもいいから、
さっさと記述を出して文帝時代と明帝時代まで武都にいるという記述あるのに
それを妄想で無理やり否定してる滅茶苦茶論旨をさっさと整合性つけられる
記述出してください、っていってんですよ。ほれ、早くしてくださいね。
568 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 21:57:40.93
>>557
ついでに、貴方の言ってるセミプロとかいう人>>565
どう見てもそんな人じゃありませんのであしからず。
漢文読解も時系列解釈もめちゃくちゃで、妄想願望ごり押しで
論に詰まったら曲解したり、立証責任から逃げ回ったり
相手に押し付けようと躍起になる様な姑息なネット廃人ですのであしからず。
569無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 22:35:29.30
>>566
俺が出した記述の通りだけど?

他に時系列を見事に書いてある文章とか突き合わせて行けばいいんじゃない?
思い込みは捨てましょう
570 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 22:36:51.88
>>565
魏と呉はよく戦っていますが、魏が荊州・揚州の三路で呉に攻め込んだ戦いの事を
言われているのですよね。呉は攻めやすく、蜀は攻めがたい、というのは、蜀軍が
強かったというわけではなく、漢中を唯一の入口として要害を抜かねばならない
蜀の地の利による攻めがたさにあるのでしょうね。魏としては、領内にて、迎撃せねば
ならないわけで、切取り次第、呉とは異なり、守戦に徹するという事で、重鎮の
司馬懿に司令職を任せた、という事で、当初から、諸葛亮与し難し、という警戒が
あったのではないでしょうか。だから、司馬懿に前線を任せつつ、曹叡が後詰を準備
したりしているわけで、北伐は曹叡の時代ですよね。だから、呉が揚州を前線として
重視、少なくとも絶対保護すべき領土として固執していない、敵軍が攻めて来たら、
進攻の緩衝地帯としているのと同じように、魏は涼州を犠牲にして、それに対する諸葛亮は
涼州全域を戦場として、魏と対峙していますよね。魏にとっては、首都に近い荊州
とは異なり、征服して日も浅い涼州へと対蜀前線が移動したのは、都合が良かったかも
知れません。全ては、呉の裏切りによる前線の後退というものでしょう。
571無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/07(火) 20:19:15.81
>>569
おいおい、そんなことよりさっさと>>567に答えろよ~
また都合の悪い所はスルーっすか?
文章読解滅茶苦茶のお前の論旨なんて、ぶっちゃけ滅茶苦茶にならざるをえないんだからさ
もともと思い込みと妄想で結論ありきで発狂してるだけのお前が
一体何をほざいてんの?
さっさと>>567に答えてみろよ
572 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/07(火) 20:59:26.58
ああ、レス番号間違えました
>>571>>566宛です
>>569さんごめんなさい
573無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 07:08:35.47
>>567
「徙郡小槐里」って,文字どおり訳せば武都郡ごと小槐里に遷ったってことですよ。
もっとも民が京兆、扶風、天水に分散しましたから,ここは郡の役所を遷したという意味でしょうが。
ですから,移動後の武都太守楊阜は小槐里にいて,主に移住した武都郡民を統治したのでしょう。
その統治がよければ,武都太守として称賛されるのは当然でしょう。
軍司令官として民を移住させただけの将軍張コウと一緒にしてはいけません。

>>569
これまでのレスを見る限り,時系列に関するあなたの根拠は,
>而卒聞亮出,朝野恐懼,隴右、祁山尤甚,故三郡同時應亮。(魏略)
>太守聞蜀軍垂至,而諸縣響應,疑維等皆有異心,於是夜亡保上邽。(姜維伝)
だけですよね。どちらも曹魏側が動揺を始めた時点での諸葛亮の居場所は分かりません。
(これは居場所が分からなかったのではなく,記事からは読み取れないということです。)
ですから祁山に来てから動揺を始めたとする曹真伝や諸葛亮伝等とは必ずしも矛盾しません。
なぜ時系列が具体的な曹真伝等の方を併記として切って捨てられるのでしょうか。
574 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 20:29:19.09
>>573
その摩訶不思議な解釈を信奉してるのは貴方くらいだと思いますが。
そうすると、貴方の妄想世界では京兆、扶風、天水に武都郡の住民が根こそぎ
移住して、それを小槐里から楊阜が京兆、扶風、天水に移住した民の統治を
行っていたんですか?wそれぞれの所にそれぞれの統治官がいるのに?w
馬鹿も休み休み言ってくださいよw福島県知事が秋田県に移住して県の治所を開く、
ここまではかなーり甘めに見てありえなくもないとしても、
そこから北海道・新潟・宮城に移住した移住民への行政を
北海道知事・新潟県知事・宮城県知事に代わって行うんですか?w
あまりの珍説に吹き出しましたw
是非ともそれを示す記述をお願いしたいのですがw
そして諸葛亮はその移住した先のもと武都民の集落を襲撃して制圧したんですか?
京兆、扶風、天水にまたがる広範囲を?wいやー、凄いですね、諸葛亮w
貴方の世界ではまさしく諸葛亮の第三次北伐は従来考えられていたものよりも
壮大な成果を得たと言っていいようですねw
575無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/09(木) 05:20:31.09
「諸葛亮圍祁山,南安、天水、安定三郡反應亮。」

これのどこに時系列が書いてあると?
漢文読めないってのはどうでもいいけど
書いてないことまで作文せんでもね
576無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/10(金) 20:46:15.15
>>575
>諸葛亮が祁山を包囲すると,南安・天水・安定の三郡が謀叛して,諸葛亮に呼応した。
(ちくま(井波律子氏)訳)

違うと仰るのでしたらどう訳するのか御教示いただきたいのですが。
577無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/10(金) 22:05:46.18
>>576
ただの並列表記と時系列表記一緒にしてはいけない

「諸葛亮圍祁山」の時に「三郡反應亮」が起こったということなのに
「諸葛亮圍祁山」の後で「三郡反應亮」が起こったと読むには文字が足りなさ過ぎるよ

時系列が表記されてるってのは「丞相諸葛亮軍向祁山,時天水太守適出案行」とか
「太守聞蜀軍垂至,而諸縣響應,疑維等皆有異心,於是夜亡保上ケイ」など

明確に前後関係を規定する文字がある時
そうでないのは並列とかよくわからんけど大体同時期とかそういうもんだろ
578 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/10(金) 23:22:31.95
>>576
>>574への解答はどうしたの?
579無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/11(土) 19:35:09.88
>>577
ですから「諸葛亮圍祁山,南安、天水、安定三郡反應亮。」をどう訳するのかを示してくださいよ。
少なくとも諸葛亮が祁山を包囲する前に3郡が造反したとは「読み得ない」のですが。
580 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/11(土) 20:08:41.89
>>579
そんなに漢文読解に自信があるんだったら>>574への解答をはやくしなよ~
581無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/11(土) 21:02:20.33
>>579
時系列を示す明確が語句がないので
諸葛亮は祁山を包囲し、三郡が背いた
ってだけ、どちらが先とか後とか書いてない
582無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/12(日) 14:55:24.66
>>581
>諸葛亮は祁山を包囲し、三郡が背いた
普通は「諸葛亮が祁山を包囲」してから「三郡が背いた」と理解するものでしょう。
全く別の話ならともかく,因果関係がある話なのですから。
特に指摘がない限り,史書の記載って時系列順に書かれるものでしょう。

たとえこの文章だけから時系列が分からないと言い張ったところで,
どうやって「先に三郡が背いた」ことを説明されるのでしょうか。
583無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/12(日) 18:17:35.22
時系列じゃなくて同時期の出来事ってことくらいしかわからんって何度かけばわかる?
細かい時系列は別の伝を参照しろってことだよ
584 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/12(日) 20:34:58.40
>>582
おいおい~>>574への解答はどうしちゃったんだよ~。
585無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/13(月) 19:54:25.31
>>583
ですからその「別の伝」って何なのですか。
そもそも諸葛亮が攻め込んで曹真が防いだ第1次北伐の状況を,
その諸葛亮伝と曹真伝以外の何に基づけと言うのでしょうか。
別働隊を率いた趙雲や馬謖や張コウや郭淮等の伝を見たって,
諸葛亮が祁山に来る前から3郡が造反していたなんて記録は存在するのですか。

おバカな私にはあなたみたいな高尚な方の御意見は全く理解できませんので,
せめて根拠となる史料を示してくださいよ。
586無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/13(月) 20:55:19.89
その事件にかかわりのある別の人の伝を見れば?
姜維伝とかにも断片的に時系列書いてあるよね
そういう記事を細かく丹念に拾うのが三国志の読み方

いくら主要人物でも時系列が明記されてない以上
他の人物伝から材料拾ってきて整合させるってのが当然なんだ
587 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/13(月) 21:02:19.38
姜維伝には諸葛亮が祁山に向かった時に天水太守と視察に出かけた
そうすると実際に諸葛亮は接近していたと情報があり、同時に各県が裏切ったと書いてあるね
588無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/13(月) 21:20:42.59
>>586
ですから,「諸葛亮が祁山に来る」前から「3郡が造反していた」なんて根拠どこにあるのですか?
ないからあいまいなこと言って誤魔化すしかできないのでしょう。
違うというのならちゃんと史料を提示して説明してくださいよ。
史料に基づかなければ,何を言っても「妄想」でしかないのですよ。
(もちろん史料に基づけば正しいと言えるわけじゃないですが。)

そもそも北伐の時系列を語るのに,行った諸葛亮でも受けた曹真でもなく,
巻き込まれて降伏した姜維の伝を見なきゃいけないって時点でおかしいと思わないのですか。
(そもそも姜維伝だって,諸葛亮が接近してから馬遵が逃亡したとするのですが。)

なお史料を手打ちするのが面倒でしたらこのサイトをどうぞ。
少なくとも上の方は若干文字化けしますが。私が引用したとおり。
ttp://hanji.sinica.edu.tw/index.html?
ttp://zh.wikisource.org/wiki/Wikisource:%E9%A6%96%E9%A1%B5
589無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/13(月) 21:32:45.20
>>588
諸葛亮が「向かった時」に起こった出来事が姜維伝に書いてある
そして諸県が裏切ったこともな

そのサイト見られるなら姜維伝自分で確認しろよ
諸葛亮が祁山に向かった時とちゃんと書いてあるから
590 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/14(火) 20:56:01.70
>>585 >>588
おいおい~そんなに漢文読解に自信もってるなら、
さっさと>>574に答えろよ~w
また妄想珍説を聞かせて笑わせてくれよ~w
591無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/15(水) 20:39:55.91
>>589
姜維伝の記事って,
>建興六年,丞相諸葛亮軍向祁山,時天水太守適出案行,維及功曹梁緒、主簿尹賞、主記梁虔等從行。
>太守聞蜀軍垂至,而諸縣響應,疑維等皆有異心,於是夜亡保上邽。
ですよね。馬遵が「諸葛亮がどこにいる」時点で慌てたのかなんで分かりませんし,
そもそも諸葛亮が漢中を出た時点で分かっていたら何で祁山の防御を固めなかったのでしょうか。
地理的に祁山さえ押さえれば,武都郡はともかく隴右は安泰なはずですが。
(それすらできなかったから隴右が混乱したわけで。)

そもそも人がわざわざリンク先まで紹介しているのに,
なんで史料(三国志や華陽国志等の原文)を提示して反論できないのでしょうか。
相手を説得するのに一番有効なのが「史料」だってことも理解できないのですか。
そんな態度で歴史を「騙る」(あなたに相応しい語はこれでしょう。)なんて恥ずかしいと思わないのですか。
(まああなたが中学生以下だったら謝りますが。)

要するに>>588で挙げたリンクを探ることすらできないないのでしょう。
あったら都合の良い記事を持って来ればいいのですから。
592無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/16(木) 19:45:57.77
>>591
おいおい~、そんな偉そうなことをいうんだったら
>>574にさっさと解答してくれよ~

横から悪いが、それにしても
散々妄想で歴史を捻じ曲げておいて、今更人に対して「騙る」認定するなんて
お前さんの方は自分を恥ずかしいと思った事は今までで一度もないんかねw
厚顔無恥とはまさにこの事だなw
593無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 07:40:11.78
蜀を滅亡に追い込んだ戦犯
それは諸葛亮
594 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 19:58:01.33
はい、ネット廃人>>593の負け惜しみ発狂入りましたー
諸葛亮死亡後30年もたった後の滅亡も諸葛亮のせいとか、
どんだけこのネット廃人君は歪んだ考え方してるんだろうか
595無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 21:50:00.72
発狂してんのは下らん突っ込みしてるテメー
596無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 09:00:41.73
>>592
外寇内患を避けた郡治や県治の移動なんて決して珍しくありません。
蜀漢でも張嶷が赴任するまで東北端の安上に郡治を置いていた越スイ郡の例がありますし,
後漢安帝期には金城郡治と隴西郡治がともに隴西郡襄武にあったことすらあります。

そろそろ>>565の,
>むしろ「武都郡まで戻った」と言い張る方がそれを立証する必要があるのですが。
に答えていただけませんか。妄想でないつもりなら答えられるでしょう。

>そして諸葛亮はその移住した先のもと武都民の集落を襲撃して制圧したんですか?
諸葛亮は太守と郡民が逃げた後の武都郡だった土地を奪取したのですよ。
まさに「當得其地,不得其民也。」だったと。
597無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 17:51:53.30
>>595
人の質問から逃げ回り、
挙句に自分で歪んだ事言い出して突っ込まれたら相手が悪い、とか
完全なネット廃人的思想が出てて素晴らしいですね!
絶賛発狂中でベリーグッドって感じですね!
598無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 18:30:19.80
>>596
ノンノン、お前さんの妄想では郡治が移動して
そこから京兆、扶風、天水に移住した、各地の元武都民の集落を
統治した事になってる。ほら、>>573でこんなこといってる
>移動後の武都太守楊阜は小槐里にいて,主に移住した武都郡民を統治したのでしょう
こんなみょうちきりんな統治は他の事例から見てもありえない、と言ってるわけですよw
仮に楊阜が郡治を移動したとて、彼が武都太守であり、その治績を称えられている以上、
武都は普通に住民がいて、そのまま継続して統治されていた事になりますが。
つまりあなたの当初の論題である、「武都は放棄されていた!」という主張が崩壊する事になります。
仮に郡治を移動させても、郡の場所を動かす事は不可能ですから、
彼が武都太守である以上、武都郡自体は存在していて、統治が行われていた事になりますから。
現に武都郡はそれ以後もずっと存在し続けるわけですからW

で、上記の説明によって貴方の
>まさに「當得其地,不得其民也。」だったと。
という妄想は否定されちゃうわけでしてWというか、そうでないと
わざわざ救援にきた郭淮の行動が意味不明になりますしW
599 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 23:50:07.55
あはぁ
600無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 20:21:40.08
>>598
>こんなみょうちきりんな統治は他の事例から見てもありえない、と言ってるわけですよw
あり得ないと言い張るのでしたら,なぜ金城郡治が隴西郡にあったのかぐらい説明されたらどうですか。
しかも金城郡と隴西郡という2郡が同じ場所(襄武)に郡治を置いていたのですが。
(念のため『後漢書』巻5孝安帝紀が出典です。
>(永初四年三月)徙金城郡都襄武。
>(永初五年)三月,詔隴西徙襄武)(まあ私が参考にしたのは西嶋定生『秦漢帝国』ですが。)

>仮に楊阜が郡治を移動したとて、彼が武都太守であり、その治績を称えられている以上、
>武都は普通に住民がいて、そのまま継続して統治されていた事になりますが。
私はすでに郡治そのものが扶風郡小槐里に遷されたと史料上立証しています。
それを否定されたいのでしたら楊阜なり後任の武都太守が本来の武都郡領域に戻ったことを示すべきでしょう。
そもそも今の日本にすら大熊町や双葉町のように他所に避難した役所があるのですが御存じないのですか。
601無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 20:37:21.18
>>600
つまり武都の郡治が移動してるってんなら
諸葛亮が攻略した武都って地図で言う下弁とかではなく
そっちの移動した方の武都ってことだよね
602 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 18:52:50.61
>>600
だってあなたの妄想と全然違うんだもんw
郡治の役場が移動したからって、土地自体が移動するわけないでしょww
福島県の役所が山形県にひなんしたら、山形県が福島県になるんですか?
さすがにそりゃないでしょww
大熊町の事例とか出してるけど、その避難した先の役所名は大熊町役場会津若松出張所、
つまり会津若松から大熊町の住民行政の機能を継続します、って事であって
あなたが妄想するように、会津若松に大熊町自体が移転したわけじゃないんですけどww
この事例をもとにして話をするんだったら、郡治の役所を小槐里に移動させつつも
武都には普通に住民がいて、それを遠隔統治してた、としかならないでしょww
ていうか、そうでないと、>>601の人も言うように、第三次北伐で諸葛亮がものっそい魏の奥地にまで
進出した事になっちゃうわけでしてwそりゃ郭淮も慌てるわw
ていうか貴方の妄想の中だと包囲の危機までおかして救援に来た郭淮が報われなくて哀れすぎですw

ついでに貴方にとってはショッキングな事実かもしれませんが、
貴方の妄想と違って、その後も武都郡は継続されていくわけですが、
その「武都郡の範囲」は下弁やら武都やら沮やらを含んだ、
つまり「諸葛亮が征服した、後漢から続いている武都郡の範囲」なわけなんですよw
いやー、本当にお疲れさまでしたw
貴方自身が言ってる事に無理があるって事は、途中から貴方自身が一番わかってたんじゃないかと思いますが
無理な論旨を無理に続けるっていうのはさぞ苦しかったでしょうねww
603無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 20:31:40.48
>>601
小槐里って長安と五丈原の間ですが,そんな所諸葛亮が攻められるわけないでしょう。
郡治が逃げた後の(元)武都郡と理解すればいいだけの話です。
(『三國郡縣表』が一番分かり易いのですが,ネットでは見つけられませんでした。
wikiですがttp://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E9%83%BD%E9%83%A1をどうぞ。
表現は微妙ですが「於是曹操棄武都郡,遷其人口於右扶風小槐里。」とあります。)

>>602
>貴方の妄想と違って、その後も武都郡は継続されていくわけですが、
ですからいいかげん,これの史料的根拠を出してみてくださいよ。
楊阜が小槐里に郡治を遷した後,元の武都郡に戻った形跡なんてどこにもないのですが。
(『三國郡縣表』では楊阜の後任として韋誕が武都太守になったとしますが,それでも「遥領」扱いです。)

郭淮が「包囲」されたなんてあり得ないとまでは言いませんが,史料的には何の根拠もありません。
>七年,亮遣陳式攻武都、陰平。魏雍州剌史郭淮率眾欲擊式,亮自出至建威,淮退還,遂平二郡。
(いまさらですが諸葛亮伝です。コピペ元をwikiに変えてみました。これで文字化けが減るとは限りませんが。)
郭淮は陳式を迎え撃とうとしたところを,諸葛亮に牽制されて撤退したとしかされません。
そして何とでもいえる蜀漢側の丞相復帰の詔ですら郭淮は「遁走」とされ,決して「撃破」されていません。
これに拠る限り,郭淮は戦う前に撤退したとしか読めないのですが。

そもそも郭淮が陳式と諸葛亮に挟撃されたとしたら,どうやって無事に脱出できたのでしょうか。
604無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 21:00:01.53
>>603
普通、郡治も移動してたらその移動先が郡の中心になるわけだから
君の主張通りそこに武都郡が移動してるってことになったら
武都郡が落とされたら移動先が落ちてるってことだよ

君の言う通り郡治がそこに移動してたら長安のすぐ近くを諸葛亮が落としてることになって異常
つまり、郡治は小槐里に移動していなかった、ということが逆説的に証明されるね
605無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 22:20:24.43
>>597
別にテメーから質問された覚えねーよ
勝手に狂ってんじゃねーよ
606 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 19:52:55.13
>>605
いや、現在絶賛発狂中じゃないかw
くだらん突っ込みといいながら、やたらとムキになっちゃって無様だなww
607無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 20:20:53.77
>>603
>ですからいいかげん,これの史料的根拠を出してみてくださいよ。
>楊阜が小槐里に郡治を遷した後,元の武都郡に戻った形跡なんてどこにもないのですが
本気でいってんですか、貴方ww
三国志が終わった後の晋書の地理志にはこう書いてあるんですがw
「武都郡っていうのはね、漢の時代に置かれたもんなんです。
5つの県を統括してるんですよ。その5つの県っていうのはね、
下弁(弁の字は原文だと難しい字になるので馴染みやすいこちらの表記にしました)
・河池・沮・武都・故道の5つの事なんですよ。」ってしっかり書いてあるんですけどww
この範囲ってどっからどう見ても漢時代に設置され、諸葛亮が第三次北伐で
征服した地点と同じ範囲ですよね?ww本当にお疲れ様でしたww

しかしまあ、貴方も本当に日本語読めない人なんですねww
こっちは「包囲の危険をおかして」としか言ってないわけで、
包囲殲滅されたなんて一言も言ってないのですがww

とりあえず、貴方がさんざんご執着だった武都郡の件に関しては、
晋時代にも普通に諸葛亮が征服した位置そのままで継続されている、という事で
一件落着であり、貴方の妄想ははかなく消えた、という事でFAですねw
いやー、貴方も自分でやってて無理有ると途中でお気づきだったでしょうが、
随分と必死になっておられたようで、こちらも随分笑わせて頂きましたw
608 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 20:28:30.09
>>607に関して少し修正を
晋書の地理志に記される武都郡の範囲は後漢時代の武都の範囲より
多少コンパクトになってます。
端的に言うと後漢時代には県が7つあったのが、晋書では5つになってます。
しかし、その5つの県は後漢時代の記録に記される県との同一性・類似性が
しっかりとうかがえるものであり、晋の時代においても武都郡の位置は
後漢時代とほぼ変わらなかった事がわかります。
よって、>>603の方がいうような、魏の奥地やら京兆、扶風、天水にまたがってるだの、
みょうちきりんな位置に変動してはいないわけです。

いやー、>>603さん、本当にお疲れさまでしたww
609無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 19:52:07.92
>>604
>阜威信素著,前後徙民、氐,使居京兆、扶風、天水界者萬餘戶,徙郡小槐里,百姓襁負而隨之。
(文字化けは変わらないのでコピペ元は中央研究院に戻しました。)
郡治が小槐里に遷ったことは楊阜伝でちゃんと示されているのですが。
認めたくないアホが喚いているだけなんですよ。

否定したいのでしたら止めませんが,せめて根拠ぐらい出してくださいよ。
(正直あの人はわざとやっていると思いますけどね。中途半端に分かっているあたり。)
610無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 22:11:03.60
>>609
じゃそこが武都郡だから諸葛亮はそこを落としてる
611無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 06:21:44.83
>>610
攻略した陳式が武都太守を破った記録はないのですから,
太守等が避難していった本来の武都郡を奪ったでいいでしょう。
何も武都郡と武都太守の居場所を同一視する必要はありません。

>>607
そりゃあ武都郡の位置はほとんど変わっていないでしょう。
郡治と太守と民が避難して,そこを奪われたことが書いていないだけで。
612 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 19:57:37.34
>>611
「○○郡」って言ったらまず郡治でしょ
つまり武都郡は動いてなかった

単に郡民の一部が移動していただけ
613無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 21:24:52.46
>>609
はいはい。寝言ほざいてないで、ちゃんと>>607について具体的に答えてもらいたいもんですなあw
認めたくない阿呆?ああ、貴方の事ですよね?w
なにせ晋代にも普通に武都郡が継続されてるのに
武都が魏のやたらと奥地だの、京兆、扶風、天水の三郡に移住した元武都民の集落を統治しただの、
みょうちきりんな事になってないのは明明白白ですから、貴方の妄想ははかなく消えるわけでしてw
614 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 21:32:08.54
>>611
>そりゃあ武都郡の位置はほとんど変わっていないでしょう。
>郡治と太守と民が避難して,そこを奪われたことが書いていないだけで。
おやおや?また論旨替えですか?
貴方の主張だと、武都は魏の奥地だの、
京兆、扶風、天水の三郡に移住した元武都郡の集落だの、に変動してるんでしょ?
でも三国志が終わった後の晋の時代には明確に武都郡が
「実際に機能している郡」として紹介されてるんですよ?
しかもご丁寧に「漢代から続いてる郡です」としっかり紹介されてるんですよw
しかも、貴方にとってはまことにショッキングな事でしょうが、
晋書の地理志には武都郡の人口もしっかり書いてあるわけでして
その戸籍数も周辺の郡と比べて特に少ないわけではありません。
貴方の主張だと明らかにおかしいですよね?貴方の主張だと武都は放棄されてすっからかんで
人はろくにいなかったはずなのに、晋代の記録では普通に他の周辺の郡と変わらない人口がいる、
これは明らかに貴方の妄想と矛盾してる事柄ですよ?
普通に見れば武都は放棄なんかされてなくて、一部の住民が移住した事はあっても
それ以後も武都に住民はちゃんといて、郡が継続されていった、というだけの話で説明がつくのですが、
「武都が放棄されてる!」と妄想で喚いてる貴方の論旨では
ここらへんにどうやって整合性をつけるおつもりなのか、さっさとやってもらいたいものですなww
615 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/25(土) 00:40:13.78
誰が戦犯と言うよりは、傑出した国家指導者が不在になるような環境ってのが詰んでる。
三国鼎立で安定を図って、他国の混乱を突いて挽回する機会を伺うのは理に適ってるけど、
そんなバランスなんていつまでも続く訳が無く、
挽回の機会をものにできない内に三国鼎立の寿命が尽きたとしか言えない。

費?が刺殺されたのは痛かったけど、それでもまだ軍事:姜維と政治:陳祗の二本柱でなんとかなってたのが、
陳祗が死んで本当に詰んだ気がする。でも、最後の詰みの話で、どうしようもない。
616無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/25(土) 09:20:50.18
>>613
晋書地理志は晋(主に西晋)当時の状況を記したものです。
曹魏末期に武都、陰平とも奪回したのですから,そりゃあ元のとおりになるでしょう。

>>612,>>614
ですから僑郡みたいなものと言っているじゃないですか。
場所としての郡と統治機構としての郡の区別もつかないのですか。

>>614
>>533で少し触れましたが,永和五(140)年と太康年間(280~289)の推計人口は下のとおりです。
武都郡:約2万戸→3千戸
陰平郡:約3万7千戸→3千戸(前者は当時広漢属国)
漢陽郡:約2万7千戸→約2万2千戸(後者は分割後の天水、南安、略陽の合計)
隴西郡:約5千戸→3千戸
漢中郡:約5万7千戸→約5万4千戸(後者は分割後の漢中、魏興、上庸、新城の合計)
明らかに周辺以上に減っているのですが。

整合性も何も,太守が郡治と郡民を郡外に遷したことを放棄と称しただけですが。
楊阜伝を書いてあるとおり読めばこうなるのですが。
617 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/25(土) 12:30:20.72
>>616
放棄と移住をごっちゃにしとるだけやな

移住者はいた、郡治は移動したか書いてない
思い込みって怖いね
618 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/05/25(土) 14:23:37.55
スレ違いだと承知ですが顔に跨られて口の中にウンチを出されるのが一番の幸せです

それと私のアナルマンコは生ハメ中出し専用なのでゴム着きセックスじゃなきゃ嫌だというヘタレ野郎はいりません
619無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/25(土) 19:19:08.24
>>616
ならんでしょ。
あんた武都が放棄されてすっからかんで「人を得られなかった」というてたやん。
なんでその放棄された武都に人がいんのよ。あんたの論説だと武都の住人は
京兆、扶風、天水の三郡だのに移動してすっからかんなんじゃなかったのかよ。
魏の末期というか、もうほとんど既に晋の領域になってるけど、
これでどうして元通りになんのよ。もう既に住民は根こそぎ移住して
数十年もたってるだろ。あんたの妄想論旨の中だと。
魏の領域になるといきなり住民が筍みたいに生えてくるのかよ。ありえねーし。

結局、その言い方だと、楊阜が住民を一部動かした後も
武都には住人がいて、統治は放棄されてなかった、でFAなわけでOKだよね?

他の周辺の郡と比べると隴西郡は戸数三千
南安郡は戸数四千三百、天水郡は戸数八千五百、略陽郡は戸数九千三百二十、
陰平郡は戸数三千、で我らが武都郡は戸数三千
同じ地域カテゴリーの他郡と比べて特に悪いわけではないよ、武都は。
つーか、なんで同じ地域カテゴリーの郡あげないで、全然頓珍漢な所をあげたわけ?
そんで、もともと漢代と晋代じゃ三国時代の大戦乱で人口激減してる。

楊阜伝と晋書地理志を見れば、どう見ても武都には住人がいて
魏側も統治を放棄してない事がわかるはずだけど。
少なくとも貴方のいうような、武都がすっからかんで京兆、扶風、天水の三郡に
移住した元武都郡の住人の集落を別の場所から統治したなんてみょうちきりんな展開とは矛盾する。
で、ここら辺をどう整合性つけてんの?と聞いてるわけ。はよ答えてね。
620無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/26(日) 19:01:29.02
>>619
>なんでその放棄された武都に人がいんのよ。
蜀漢が武都を得たのは建興七(229)年で,太康年間(280~289)まで半世紀もあります。
正直曹操=曹魏側よりも長く支配していたのですが,
まさか蜀漢はその間何もしなかったとでも言うのでしょうか。
(もっとも曹魏側の徙民策に従わなかった人はいたでしょうし,
『華陽国志』が指摘するとおり蜀漢側によっても荒らされましたが。)

>同じ地域カテゴリーの郡あげないで、全然頓珍漢な所をあげたわけ?
はぁ,武都郡と隣接する4郡を挙げたのですが,上にも挙げた漢陽郡すら知らないのですか。
確かに蜀志には登場しませんが,せめて後漢書地理志ぐらい御覧になったらどうですか。
(念のために言えば,武都から見て陰平が西南,漢陽が北,隴西が西北,漢中が東です。)
本当に諸葛亮を称賛する視点でしかものを見ることができないのですか。

それでも違うと言い張るのでしたら,御自身で適切な郡を挙げてみたらどうでしょうか。
621 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/26(日) 20:23:57.41
>>620
蜀漢はむしろ武都から人攫いしてんだけどな・・・
降伏したテイとか即座に移住させてるし
622無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 19:30:31.26
>>620
馬鹿ですか。
貴方の中じゃすっからかんだったんでしょ。
なんでその地域にわざわざ蜀漢が移民させんのよ。
ていうか、結局のところ、あんたが言ってるのとは違って
「楊阜が移民させた結果、武都が京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落になった」と
するあんたの妄想論旨と違って、武都郡はそのまま継続されて
蜀漢に攻略されて支配されてたって事にしかならないのに、
そこら辺の整合性をどうつけてんのか、いい加減にさっさと答えてよ、と言ってんだけど
なんで頓珍漢な事言ってるわけ?肝心のあんたの妄想論旨と現実が食い違ってる音に対して
整合性をつけて答えてみろと言ってんの。

…あのさあ、本当にあんたって馬鹿丸出しって感じ。
俺は適切な郡を既に挙げてるでしょ。蜀志がなんだって?後漢書がどうしたって?
俺がいってるのは「地域カテゴリー」
んで、晋書地理志ではしっかりとあんたが馬鹿丸出しで挙げた見当違いの郡と違って
俺が出した隴西郡、南安郡、天水郡、略陽郡、陰平郡は同じ地域カテゴリーに属してる。
なんで晋書の地域カテゴリーで持って語ってる時に別地域の郡挙げたの?と
こっちが聞いてんのに、見当違いの4郡あげて何がしたかったんだ?
諸葛亮に都合のいい所がなんだって?地域カテゴリーが違う、という晋書地理志からの区分に
諸葛亮にどう関係するのか謎杉なんですけどww
結局のところ、馬鹿丸出しで印象操作しようとして適当な所を挙げて
あっさり返されて負け惜しみで発狂してるだけにしか見えませんがww
本当にネット廃人がさもしいプライドを守る為に馬鹿丸出しで詭弁こねてるだけですなwww

こっちがしっかりと該当する地域カテゴリーの郡を挙げてるのに
それをガン無視して発狂してるけど、マジで正気か?
それともいつも通り、都合悪いところは完全無視して曲解して発狂する、
ネット廃人の馬鹿丸出し行動パターンですか?ww
本当にネット廃人の妄想は粉々にされるのが早いからそうやってさもしい行動で
自尊心を守るのが大変でご愁傷様ですなww
623 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 19:31:36.39
>>622一部訂正
×食い違ってる音に対して
○食い違ってる事に対して
624無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 20:51:01.40
>>622
大分レスが流れていますから,とりあえず本来の主張は挙げておきましょう。
「蜀漢が武都、陰平2郡を奪うのに,陽動として陳倉を攻める意味なんてない。」
同意していただけるかはともかく,よほどのバカ以外は理解していただけると思いますが。

>場所としての郡と統治機構としての郡の区別もつかないのですか。
振りだと思っていたのですが,これすら理解できないとはホンモノだったのですね。
妄想で歴史を騙る諸葛亮信者らしいと言えばそれまでですが。

>「楊阜が移民させた結果、武都が京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落になった」と
こんなの楊阜伝を読めば当然たどり着く解釈ですし,
そもそも『三国郡県表』以下の地域研究では常識扱いされています。
(当時の郡県統治が「面」で行われていたとでも言いたいのでしょうか。)
あなたがどこから知識を得ているのかは見当もつきませんが,
諸葛亮の伝記が揃いも揃ってこの点を避けていることの方がむしろ不自然なのですよ。
(もちろん諸葛亮の北伐唯一の成果がこんなものでは格好がつかないでしょうし,
伝記を書くような文学研究者や門外漢にそこまで求めるのは酷ですが。)

>俺が出した隴西郡、南安郡、天水郡、略陽郡、陰平郡は同じ地域カテゴリーに属してる。
そもそも「地域カテゴリー」の定義って何ですか?答えられないでしょうが。
後漢の漢陽郡が三国時代を経て西晋の南安、天水、略陽3郡になったことも理解できないのですか。
いやまさか後漢期の人口統計は必要ないとでも言いたいのですか。
武都郡が特に減少したことを示すのには当然必要なのですが。
(まぁあなたのレベルを考慮していなかったのは誤ります,
しかし考察スレでここまで説明が必要な時点で恥ずかしいということぐらいは弁えなさい。)
625無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 03:10:35.01
陳倉の攻略がうまく行かず、長安から敵の援軍の影がちらついたので
あきらめて撤退したものの、それほど被害は受けてない事と
無茶な出兵をした手前、手ぶらじゃ帰れない事、これ以上降格もできない事から
魏にとって戦略価値がない防備の薄い所に目をつけて
かすめ取って、何とか面目を守った

って所が真相じゃね?

狙い通りの大勝利としては、たいした戦果じゃないし
功をあげた陳式がその後、どのように扱われたかすら記述もない
626 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 03:30:20.94
>>625
その後どのように扱われたかわからないって奴は結構多いから理由にならない
627無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 03:31:11.96
>>627
恥を知るのお前じゃね?

4月以降まで武都陰平攻めは何となく思い込みで伸びたかもしれないって言ってた奴が言っていいことじゃねぇよ
628 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 18:14:54.30
>>627
早く寝ろ、自分にアンカーして自爆しとる
629無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 20:32:22.79
>>625
たぶんそうだったと思いますよ。
ここで勝利して丞相に復帰するつもりが,逆に降格の危機に陥ったと。
(諸葛亮に権限を手放す気はないでしょうし,これ以上下がったら李厳も黙っちゃいないでしょう。
かと言って諸葛亮は失脚させられないし,だったら人事上も丞相に復帰させないといけません。)

まぁ2郡には戦略的価値がなかったのではなくて,
曹魏側に維持するだけの力がなかっただけでしょうが。
(蜀漢側がこれまで取らなかったのは,単に東征や南征で手を出す余裕がなかったからでしょう。
呉懿あたりが止めたのかもしれませんが,魏延にも最低限の自制心はあったということです。)
630無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 21:05:31.74
>>622
はいはい。馬鹿丸出し。
お前が言ってるのは「武都は放棄されていた!
武都は京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落になった」という妄想だろ。
都合悪くなったからって、いきなり論旨を変えるなよ。
早くこの既に史実と食い違いまくってる妄想と史実の整合性を早くつけろといってんの。

そういって抽象論で逃げ回ってないで具体論で答えなさいって言ってんの。
そういって逃げ回るお前のやり口はよく理解してるからさw

>こんなの楊阜伝を読めば当然たどり着く解釈ですし,
それはお前の妄想世界でだけ通用してる常識であって
まっとうに解釈すれば誰もそんな妄想には到達しないから。
晋の時代には武都に関しては普通に「漢代から継続されてる郡です」と
はっきり書いてある。実質的に機能してる郡としてね。
お前の妄想世界にあるような「京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落になった」
なんて史実はどこにもない。いい加減、この史実と食い違いまくりの妄想と
史実の整合性を早くつけてみろといってんの。

>そもそも「地域カテゴリー」の定義って何ですか?答えられないでしょうが
お前って本当に馬鹿だったんだww晋の時代において武都と俺が挙げた他郡は
秦州という一つの地域カテゴリーにまとめられてる。だから俺は周辺として比較するなら
この地域カテゴリーに基づくべきだと何度も指摘してやったのに、
蜀志だの、後漢書だの、見当違いの事いいまくって、挙句の果てに
「恥ずかしいということぐらいは弁えなさい(キリ)」と言い出すとか
本当に馬鹿丸出しの厚顔無恥ってすごいですねwwさすがはネット廃人としか言えませんよw
で、貴方は馬鹿丸出しで例によって無知をさらしたわけですが、
これでご自分が言ってきたこととどう整合性をつけるおつもりなのか、
これからすごく楽しみにさせていただきますw逃げないで頑張ってくださいねw
631無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 21:20:34.61
>>625
大した戦果じゃないどころか、蜀がこれ以後祁山方面に出るにおいて
この武都・陰平を制圧して進撃路を安定させた意義は非常に大きい。
そもそも、
1.陳倉を攻略する為に20数日分の食糧しか携行してなかった事、
(これでは攻略しても維持できない。)
2.蜀軍が間髪入れずに武都・陰平へと襲い掛かっている事、
そして、それに対する魏軍への反撃に対して
諸葛亮が非常に手際よく戦略的挟撃体制を作って撃退している事は
この策戦が前もってよく練られていたものであった事を伺わせる
3.そして、第三次北伐の後に行われた第4次北伐は
まさにこの武都・陰平を攻略する事によって得た足掛かりをもとにして
行われた事、

これら三点を考慮するにどう見ても陽動策としてみるのが妥当だな。

陳式の記述云々言ってるけど、そんなのは列伝されてない人間なら当たり前。
劉備最後の呉遠征において、それまでの経歴不明の高位将軍なんて何人も出てくるし
全軍統率者の人ですら、それまでの事績で具体的な事はろくにわからないという有様。
列伝されてたらまた違ったんだろうけど。
結局のところ、最終的に蜀において大将軍にのぼったとされる高翔や
この第三次北伐における陳式のように、明らかに蜀軍の重鎮であるのに列伝されず
季漢賛にも名前が無い、という人間がどう遇されたかなんて他の記述から拾うか推測するしかない。
高翔の場合は第4次北伐の後の李厳弾劾文に名前出てくるけど、
陳式はそれ以後一切登場しない事から考えて、第三次北伐後に死亡するか、引退したか、なので
推測の為の記述も残ってないという状況なだけ。
632 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 21:23:37.89
>>629
いや、残念だけど>>631で挙げたようにそれは無理がある。

というか、呉懿が止めたとかいう記述ないしw
魏延が自制したという記述もないしw
単に諸葛亮の陽動策と陳式の果敢な行動によって、
武都・陰平を間髪入れずに攻略できたのがこの時だったというだけ。
633 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 21:33:33.41
というか、>>624のネット廃人君は
相変わらず史実から跳躍しまくりの妄想をかっ飛ばして
>伝記を書くような文学研究者や門外漢にそこまで求めるのは酷ですが
とかいっちゃうあたり、マジで自分が恥ずかしくならないのか疑問なんだけどww
お前の妄想自体が史実から跳躍してるだけだから、
誰もそんな結論に到達しないだけであって、研究者は常識的に史実を解釈してるだけだからw
酷なのは史実から跳躍しまくりの妄想を勝手に断定して
それに対する矛盾点を一切無視して真実だと発狂し続けるお前の妄想世界と
史実との残酷なまでの乖離だろうがw

しかしまあ、晋代の地域カテゴリーもろくに知らずに頓珍漢な事喚いたり、
本当に厚顔無恥って笑えるな、としかいえないww
634 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 21:35:21.80
ああ、レス番修正しときますね
>>630のレスは>>624のネット廃人君宛ですw
ちゃんと答えなさいね、>>624の妄想ネット廃人君w
635 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 21:38:38.77
そもそも>>624は第三次北伐の時期を勝手に伸びたとか
もともと言い出してた時点で…
636無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 23:52:54.92
>>631
> 1.陳倉を攻略する為に20数日分の食糧しか携行してなかった事、
> (これでは攻略しても維持できない。)
一次の敗戦から半年たたずで再侵攻、しかも冬の軍行
魏の防衛が整う前に要所の占領を目論んだ奇襲作戦の算段が高い
そして奇襲ならば最低限の糧秣しか携帯していないのも必定
後続に別働隊の輸送部隊を編成しておけば占領後の糧秣不足など心配するにあたらない
さらに言えば、敵城の攻略を20数日であきらめただけで、
当然ながらそこで糧秣が尽きたわけではなく、撤退を完遂したことからも
余裕を持った撤退であることは明白

> 2.蜀軍が間髪入れずに武都・陰平へと襲い掛かっている事、
武都・陰平への侵攻は二次から最低でも1~2ヶ月は間を空けている
少なくとも陳倉への援軍が長安に撤退した事を確認してからでないと始められない
陳倉への援軍の撤退を待たずに、間髪入れずに侵攻すれば、陳倉への援軍が
そのまま討伐軍に成り代わるからだ

> そして、それに対する魏軍への反撃に対して
> 諸葛亮が非常に手際よく戦略的挟撃体制を作って撃退している事は
> この策戦が前もってよく練られていたものであった事を伺わせる
魏(郭淮)が救援に向うが、孔明が退路を伺う動きを見せたら戦わずに撤退している
また、この三次について魏書ではほぼ記述がない事からも重要視されていないことが伺える

> 3.そして、第三次北伐の後に行われた第4次北伐は
> まさにこの武都・陰平を攻略する事によって得た足掛かりをもとにして
> 行われた事、
四次の戦略目標は、一次と同じ
一次で占領しなかったのは、戦略目標は祁山占領で奇襲戦を仕掛けるため
戦略価値の乏しい両地はほっとかれ、
戦略価値が乏しい故にほっといたことにより実害を被ることもなかった
両地を占領していなければ、祁山へ侵攻できない訳ではないので
足がかりとするのは過大評価

陳倉包囲中に武都・陰平を攻略しているならば兎も角
敵の援軍を呼び込んで、足止めすることもなく
両軍が撤退してからの再侵攻では陽動作戦として成立していない
そんな大掛かりな陽動作戦を用いなければ落とせないほど重要拠点でもない
637無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 00:02:02.78
>敵の援軍を呼び込んで、足止めすることもなく

王双切ってる
638 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 00:12:51.73
>>636
蜀軍の兵糧が20数日分でしかなかったのは張コウ伝にも記述がある。
「私が到着する頃には蜀軍は撤退しているでしょう。
諸葛亮の兵糧は10日分程度しかありませんから。」と張コウは述べており、
実際にその通りになっている。この文章からは
「蜀軍は兵糧がなくなって撤退するしかないだろう」という張コウのニュアンスが
明確にわかる。撤退完遂がどうたらいっているが、普通は「撤退分の兵糧を除いた
敵地で戦闘する為の兵糧が尽きた場合」でも「兵糧が付きた」という表現をするのは自然。
というか、本当に掛け値なしに帰りの兵糧までなくなるような真似をする将帥はいない。
張コウの発言と合わせてみても、この戦いで諸葛亮は「撤退分の兵糧を除いた、
敵地滞在の為の兵糧が尽きた」と見るのが妥当。で、これでさっさと退いている以上、
後方からの兵糧が来ているわけはなく、結局のところ、これでは維持が無理。

そんな事実はない。
というか、蜀軍が退いてから、漢中に至るまでにある程度の日数が必要とされるので
魏軍は蜀軍が漢中に帰還していくのを見て安心して戦後処理を行って帰還するのは自然。

重要視されてないのではなく、魏側にとって都合悪い事だから、魏側の記録では省略されてるだけ。
第一、郭淮にしてみれば、諸葛亮が挟撃体制を構築している状況なのにもかかわらず、
突っ込んでって包囲殲滅されるわけにはいかんので、判断は妥当。
この第三次が終了した後に魏側からの蜀侵攻が行われており、魏側にもそれ相応の衝撃となっている事が伺える。

第一次はそっちも言ってるように、趙雲達を活用した陽動策を用いた上での
祁山への急襲策だった。この時点では魏は諸葛亮がどこに出てくるのかわかっておらず、
魏側の祁山方面の防備は薄かった。というか、諸葛亮が魏側の主力を陽動した結果でもあるが。
だからこそ陽動策を用い、その間に祁山に一気に出る事に意味があった。
この急襲策においては関係ない郡を攻略して時を浪費する必要性が無い。
そして、第一次が終了した後には魏側もその方面への警戒を高めており、
曹真も諸葛亮が別の道を探すだろう、と予測してそれが陳倉だとしている。
この状況では2郡を確保して安定して祁山方面への侵攻ルートを確保しておく事に十分な意味がある。

追撃してきた王双を討ち取っているし、
一旦、帰還して魏側に蜀軍の侵攻がこれで終了した、と思い込ませ
その上で別方面をすぐさま侵攻する事に大きな意味があり、
実際に魏はそれに引っかかっている。陽動策として見事に成功していると言える。
実際に魏側もすぐに郭淮が救援に動いているように、相応の価値を持った拠点であり、
最初から2郡を攻略しようとして動けば、魏側も警戒して相応の対策を取る。
だからこそまず別方向の陳倉を陽動攻撃して、その上で侵攻してあっさり攻略する事が出来た。
迅速に確保し、その後も安定してこの2郡を恒久的に確保するにおいて
この陽動策の果たした意義は非常に大きい。
639無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 00:18:28.43
というか、散々妄想はいて発狂していた>>624のネット廃人が論理破綻して完全沈黙してるので
もう一回>>630における>>624宛のレスを貼っときますねw
これだけ論理破綻した内容を、>>624のネット廃人がどうやって妄想で無理やり整合性を
つけようとするのか、大いに興味あるのでw
>>624
はいはい。馬鹿丸出し。
お前が言ってるのは「武都は放棄されていた!
武都は京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落になった」という妄想だろ。
都合悪くなったからって、いきなり論旨を変えるなよ。
早くこの既に史実と食い違いまくってる妄想と史実の整合性を早くつけろといってんの。

そういって抽象論で逃げ回ってないで具体論で答えなさいって言ってんの。
そういって逃げ回るお前のやり口はよく理解してるからさw

>こんなの楊阜伝を読めば当然たどり着く解釈ですし,
それはお前の妄想世界でだけ通用してる常識であって
まっとうに解釈すれば誰もそんな妄想には到達しないから。
晋の時代には武都に関しては普通に「漢代から継続されてる郡です」と
はっきり書いてある。実質的に機能してる郡としてね。
お前の妄想世界にあるような「京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落になった」
なんて史実はどこにもない。いい加減、この史実と食い違いまくりの妄想と
史実の整合性を早くつけてみろといってんの。

>そもそも「地域カテゴリー」の定義って何ですか?答えられないでしょうが
お前って本当に馬鹿だったんだww晋の時代において武都と俺が挙げた他郡は
秦州という一つの地域カテゴリーにまとめられてる。だから俺は周辺として比較するなら
この地域カテゴリーに基づくべきだと何度も指摘してやったのに、
蜀志だの、後漢書だの、見当違いの事いいまくって、挙句の果てに
「恥ずかしいということぐらいは弁えなさい(キリ)」と言い出すとか
本当に馬鹿丸出しの厚顔無恥ってすごいですねwwさすがはネット廃人としか言えませんよw
で、貴方は馬鹿丸出しで例によって無知をさらしたわけですが、
これでご自分が言ってきたこととどう整合性をつけるおつもりなのか、
これからすごく楽しみにさせていただきますw逃げないで頑張ってくださいねw
640無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 00:29:48.71
>>637
王双が援軍?
641無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 00:42:57.71
撤退後にすぐに動けば、南鄭に着陣した張郃に追撃を受ける
陳倉ではなく南鄭に着陣している所がポイント
ここに布陣されたら一戦交えない限り、他の方面への侵攻は無理

三次は張郃の軍が撤退してから起こされたものであり
二次の撤退後、即座に起こした侵略ではない
即ち分断された戦役
642無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 01:17:23.95
>>641
は?張コウが着陣した南鄭ってどこだと思ってんの?
まさか漢中の南鄭?お前の妄想世界だと張コウは第2次北伐の時点で
漢中制圧にでも成功してたのか?山脈を越えて?
そりゃさすがに無理だろ―
643 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 01:22:08.57
>>641
というか、いい加減、>>630>>639のレスにさっさと答えて欲しいんだけど。
644 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 03:27:55.95
>>640
王双は援軍

陳倉に篭ってたカク昭の同僚、部下だとしたら
千人少々しかいない陳倉から出撃して数万人いる諸葛亮軍に突っ込んだわけだから
本格的なヴァカになってしまう
645無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 06:58:53.56
アレな人が暴れていますが,時間がないのでとりあえず>>630だけ。

>お前の妄想世界にあるような「京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落になった」
何度でも言いますが,現実社会の三国志(楊阜伝)にはちゃんと,
>阜威信素著,前後徙民、氐,使居京兆、扶風、天水界者萬餘戶,徙郡小槐里,百姓襁負而隨之。
と書いてあります。戻ったと言う方が妄想です。

>秦州という一つの地域カテゴリーにまとめられてる。
だったら最初から(後の)秦州とでも言えばいいじゃないですか。
それはともかく,>>616でその秦州各郡をすべて挙げた私がなぜ非難されるのでしょうか?
梁州に属する漢中郡が入っているのがそんなにお気に召しませんでしたか?
646無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 10:59:12.16
>>645
アレな人?それって史実と食い違いまくりの妄言をはいて発狂してる
ネット廃人のあんたでしょ?いい加減滑稽だわ

何度も言いますが、そんな事実はどこにもありません。
なんだってその三地点にはそれぞれの行政官がいるのに、
別の地点にいる行政官が統治する、なんて摩訶不思議な事になるのやら。
実際に晋の時代にも武都郡は継続されており、その地域は
後漢時代から続き、諸葛亮が第三次北伐で攻略した地域とほぼ同様です。
人口だってちゃんといます。貴方がいうような、別地点に根こそぎ移住した、
別の地点、それも「3つの離れた地点に移住した元武都民の集落を武都として
統治した」なんて事実はどこにもありません。いい加減、貴方の中でどうやったら
これだけ史実と食い違いが起きてるのに、整合性をつけられてるのか、
手早く説明してもらいたいものですなあ
どうせ無理でしょうがw
というか、これだけ矛盾や乖離が出まくりの妄言で研究者よりもご自身を上位だと
思い込めるあたり、なんとも厚顔無恥なお方だと滑稽に感じざるを得ないわけでしてw

ほっといたら貴方がどんどん見当違いの事を言って発狂しだすので
見てて面白かったんですねwちゃんと晋代には一つの地域カテゴリーに~と
言ってるにも関わらず、蜀志がなんですって?w後漢書がなんですって?w
いやいや、これだけ見当違いの事をいって「恥ずかしいという事を弁えなさい(キリ)」
とかおっしゃっちゃうあたりにいたっては本当に爆笑させて頂きましたw
漢中郡もそうですし、個々の郡をまとめていいだしたり、
武都には周辺とくらべてもそうみおとりしない人口がいるのに
すっからかんだといいだしたり、あきらかに貴方のいってる事は史実と矛盾します
で、これらから見るにどう見ても武都は放棄されておらず、
統治は継続されている、としかならないのに、貴方はこれをどうやって整合性つけるのか
早く解答をお願いしますねw
647 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 11:25:35.61
というか、>>645のネット廃人さんって毎回毎回自分の妄想で史実かっとばして発狂し
それと違う意見をいう人間の事を「暴れている」とか言い出すけど、なんなんだろうね?
インターネット上で妄想前提で史実かっとばしまくりの>>645のネット廃人と違う見解を持っている人間がいようが、
別に不思議でもないどころか自然だし、その見解を示したところで「暴れてる」とかは普通はならない。
別にインターネット上での多くのネットコミュニティは「ネット廃人>>645の意見が絶対であり、正義であり、
それを尊重しなければならない」なんて規約を持ってるわけでもなんでもないのに
何をどうやったら対論者を「暴れてる」とかいう妙な見解に至るのか謎
ネット廃人だけあって自分自身をネットと同一化させてるような発言が目立つが、
正直、正気を疑う領域だわw
648 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 21:26:01.51
やっぱりアレな人が暴れていますから>>639をと思ったのですが,
>>630と中身全然変わらないじゃないですか。まぁ読み飛ばした私が悪いのですが。

>>646
上でも触れましたが,3世紀の郡県統治が領域の全土に及んでいるなんて本気で思っているのでしょうか。
蜀漢の南中統治なんて諸葛亮の死後になってようやく張嶷等の活躍で進みましたし,
孫呉の山越討伐がこの時点でも進行中なのは言うまでもないでしょう。
曹魏だって領内の廬江に潜んでいた王祥兄弟なんてのがいたのですが。
空いている土地に武都郡民を住ませて統治しただけでしょう。
一応元の土地は奪われていませんでしたから。奪われたら文字どおり僑郡になります。
それでも武都太守が武都郡領域に戻ったと言うのでしたら,
いいかげん妄想以外の根拠を出したらどうですか。

>地域カテゴリー(笑)
ですから,漢陽郡は後漢から西晋の間に天水、南安、略陽(曹魏期は広魏)3郡に分割され,
約2万7千戸から約2万2千戸の微減で済んだのにもかかわらず,
武都郡は約2万戸から3千戸にまで激減したのですよ。
同じく曹魏と蜀漢の戦争に巻き込まれた陰平や隴西だってここまで減っちゃいません。

確かに漢中は分離された東部が大きすぎて比較にならないでしょうが。
(忘れていたので付け加えますが,南の広漢郡は約14万戸から約4万4千戸への減少です。)
649無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 21:27:19.28
>>636
第2次北伐の補給はあなたの言うとおりだと思います。
故道だって武都郡東部経由ですから,どうせ妨害なんてありません。

>武都・陰平への侵攻は二次から最低でも1~2ヶ月は間を空けている
「間髪入れずに」というのが思い込みでしかないのは確かですが,
あまり空けすぎると建興七年春に開始できなくなります。
さすがに諸葛亮が帰還したのは同年春になってからでしょうし。
(曹真伝の「明年春」を誤記として片付ければ解決するのでしょうが。)

ですから,私個人は第2次北伐に失敗してから第3次北伐を考案、実施したと考えていますが,
第3次北伐が最初から予定されていた行動であったことは現時点では否定できません。
(諸葛亮が陳倉を奪った後に弱体化した隴右を刈り取るつもりが,
肝心の陳倉を奪えなかったために手前の武都、陰平しか取れなかった可能性はありますので。)

まぁ蜀漢人の陳寿がはっきりと別の作戦として記しているのに,
最初から一連の作戦だったとか,ましてや陽動作戦だなんてことはあり得ませんが。
650無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 21:39:30.32
>>649自己レス。
若干表現があやしいので追記。

>最初から一連の作戦だったとか,ましてや陽動作戦だなんてことはあり得ませんが。
これは同時に行ったのではないという意味です。

>第3次北伐が最初から予定されていた行動であった
これは陳式が出撃することは予定されていた(可能性がある)という意味です。
蜀漢側は当然陳倉攻略に成功した上での作戦を考えていたでしょうから。
651無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 04:17:00.07
>>642
ではどこの南鄭なんでしょう?
着陣しただけで制圧したことになるなんてほんとに考えてるんですか?
孔明は何度か祁山に着陣してますが、制圧なんてできてませんよ?

>>644
援軍到着前に諸葛亮が撤退
撤退した蜀軍を追撃
到着していない援軍が撤退中の蜀軍に追撃?

>>649
陳倉は1ヶ月未満の攻防だったし、冬も春も3ヶ月づつあるから
1~2ヶ月あいても間に合わせることは可能でしょ
外に張郃の軍がいる中、わざわざ打って出るまねはしないでしょ
652 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 08:51:40.52
>>651
援軍到着前に撤退は開始してるから騎兵で急いで追いかけてるんだろ
653無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 19:37:10.18
>>646
あのさー、上でも書いたけどその毎度毎度いう「暴れてる」って
一体何の事いってんの?ぶっちゃけ、インターネットは別にあんたの私的空間でも
なんでもないし、あんたはインターネット世界の主催者でもなんでもないわけで
あんたの妄想願望に対する反論しちゃいけない、なんてルールがあるわけでも
なんでもないんだけど、そこらへんどう思ってるのかな?
前から思ってるんだけど、マジでネット廃人だからネットと自分を同一化でもしちゃってんの?
ちと疑問に思うので答えてみそ

だからさー、その妄想願望の根拠をいい加減出せと言ってんのよ。
「武都は放棄されていた!
武都は京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落になった」なんてみょうちきりんな
妄想願望解釈は、晋書の地理志において武都が漢代から続いている郡であるとされている事や
その範囲が漢代とほぼ変わらない状態である事で明らかに矛盾されるわけで。
お前さんの妄想願望じゃ全然説明つかないっしょ。
いい加減、妄想願望だけじゃなくて、きちんと整合性つけて答えてみろと言ってんの。

お前さんの妄想世界だと、武都はすっからかんになったんでしょ?
というか、武都は京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落になってるんでしょ?
武都に住人がいて、周辺地帯とほぼ変わらない人口を維持してる時点で
完全に矛盾してんじゃん。ほれ、さっさと整合性をつけて答えてみいよ。
論旨のごまかしは通用せんぞ。
654 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 19:38:03.18
ああ、悪い>>653>>648宛ねー。
655無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 19:51:30.18
別人宛のレスだけど、突っ込みどころが多いので突っ込んでおく。
>>649
補給論に関してはこっちが>>638でしっかり説明してやったんだけど、
何に賛同してるのか意味不明なんだけど。

…あのさー。「春」って何月の事だと思ってんの?
旧暦の春は一月からだぞ。12月から20数日かけて陳倉攻撃して
そこから引き返して漢中に至った時点で新年にはなってるわけで。
そこから再出陣して武都・陰平を攻略し、魏軍を撃退して帰還して
その勝利の報告を行い、丞相復帰が認められ、丞相に復帰、
これらが春の段階で終わってるとするなら、その連動性は十分に推察できるな。

二つの作戦を2回続けて行ったんだから、そりゃ史書に淡泊に記せばお前さんみたいに
必死になって認めない人間はそう断定せざるを得ないだろうなw
実際は諸葛亮に見事に魏が手玉に取られたのが実際。
656 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 19:56:18.39
>>650
>蜀漢側は当然陳倉攻略に成功した上での作戦を考えていたでしょうから。
俺が上で指摘したように、蜀軍が第2次北伐において用意した食糧が少なかった事は
敵側である張コウからも推察されており、しかも張コウが
「蜀軍は自分が着く前に食糧不足で撤退しているだろう」と述べているように
蜀軍に後方から補給が来たなんて事もない。これでは陳倉を取ったとしても維持するのは無理。
って何度もいってんだろ。
657 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 20:27:20.53
>>651
少なくとも、漢中のど真ん中である南鄭に到達したりなんぞしたら、
諸葛亮が漢中に引き上げる事も不可能になる。
第2次北伐が終わった後に諸葛亮は一回漢中に帰還してるが、
漢中の中枢である南鄭に張コウがいるなら、一戦交えて撃退しないと
帰還は不可能。しかし、実際には諸葛亮は王双を討ち取った事で
追撃を断ち切って帰還しており、張コウとの戦闘描写はどこにもない。
当然ながら張コウの伝にもない。
というか、張コウ伝において張コウが明帝に対して
「諸葛亮の兵糧は10日分くらいしかないから、私が着く前に退いているでしょう」と
述べたのは河南城。洛陽の西隣。地図見ればわかるけど、めっさ遠い。
これで諸葛亮より先に南鄭に到達することなど不可能。
せいぜいが、魏と漢中の国境地帯まで行けたかどうかだろう。

王双は「騎兵率いた」と書かれており、騎兵で追撃してる。
おそらく歩兵を置いての急追撃だったと思われる。

タイムスケージュール的にんな悠長な事してたら間に合わないっつーの。
何度も言うが、河南城から南鄭まで到達すんのは相当な時間かかるから。
張コウ軍が南鄭に到着するまでに何の妨害も戦闘も起きてないのも変だし。
せいぜい魏と漢中の国境地帯まで踏み込んだ、くらいに解釈しないと
時系列や記述での動きがめちゃくちゃになる。
658無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 21:47:25.92
>>651
確かに私も>>496で言ったとおり,時間的には不可能ではありません。
(まさにこのレスで誰かさんのスイッチを入れたようですが。)

でも諸葛亮に時間を空けている余裕なんてなかったと思いますよ。
だってあなたも>>625で言われたとおり,第2次北伐の責任問題がありますから。
周囲(特に李厳や魏延)から突っ込まれる前に動く必要があったと思います。
(前回馬謖と趙雲のせいだと言いながら「司令官に責任がある」とまで言い放っておいて,
まさか自分で指揮した作戦に失敗して責任を取らないわけにはいかないでしょう。)

諸葛亮自身が漢中に戻るだけの時間があれば,費曜等は一安心して引き戻すでしょう。
まさか数か月で2度も山を越えて侵攻してくるとは思っていないでしょうから。
その意味で実際に2度出た諸葛亮の行動力は称賛されるべきです。
(主力を率いた陳式は第2次北伐の控えだったでしょうが。)

あと張コウの南鄭云々は誇張で間違いないでしょう。
わざわざ秦嶺山脈を越えてまで追う必要も道もありませんし,
陳倉付近まで来たのかどうかさえ分かりません。
659無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 21:49:15.80
>>655
自論に賛成してもらえないからって発狂されるのは大変見苦しいのですが。

そもそも荊州にいた張コウにすら見抜かれていたとすれば,
(張コウを称賛するための創作を含めて)蜀漢側の食糧事情は事実なのでしょう。
だったら隙を突いて急襲したものの失敗しただけの話じゃないですか。

確かに諸葛亮が陳倉の防備を見て「大驚愕」したのは誇張かもしれませんが,
陳倉に到着して真っ先にしたことが攻撃じゃなく降伏勧告だったということは,
諸葛亮にはとにかく急いで陳倉を落とす必要があったということでしょう。
この時点で,陽動作戦だなんて絶対にあり得ません。
だって,陳倉が勧告に応じて降伏しちゃったらどうするのですか。
諸葛亮はエスパーじゃないのですよ。相手の行動なんて分かるはずがありません。
660無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/01(土) 18:10:46.36
まぁ蜀は一応貨幣を運用してるみたいだが、台所事情は苦しいようだ
661無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/01(土) 22:33:44.38
>>659
だったら抽象論でなく、具体論で答えてねw
具体論で答えられなくて発狂してるのはどっからどう見てもお前だからwwネット廃人ちゃんww

隙をついて急襲して、勝ったとしても維持できない兵糧抱えて攻めかかる理由が
陽動策戦以外の何があるっていうんだか。
自分で言ってる事が支離滅裂な事に気が付かないあたり爆笑ものですねwww

んなわけないだろ。
陽動策戦だったと考えるなら、逆に降伏勧告したのはうなずける。
諸葛亮だって陽動策戦で戦闘して消耗する戦力は少ない方がいい。
だから無意味に降伏勧告して時間を潰しただけ。
どうせ兵糧的には勝ったって維持できないのだし、
陳倉の防備を見て守りが固められてると見れば、
そう簡単に降伏勧告に応じない事は容易に想像がつく。
ま、降伏勧告に応じたら応じたで、城周辺の物資や人口を連れ帰って
少しは儲けが出るかな、で別に損にはならないし。

それはそうと>>653はどうした?はよ答えてみい。
662 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/01(土) 22:35:34.68
>>660
そんな事実はない。史実で見ても。第2次北伐の時に諸葛亮が持参した兵糧だけ
他の北伐と比べて異常に少ない事は、これが陽動である事を明確に示している。
663 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/01(土) 22:43:16.95
>>658
あー、それからさー、>>658
>確かに私も>>496で言ったとおり,時間的には不可能ではありません。
>(まさにこのレスで誰かさんのスイッチを入れたようですが。)
なんていけしゃあしゃあとぬかしているけどさ、
それ以前のレスで「第三次北伐は理由はないけど春に終わってないかもしれない!」とか
妄想全開で発狂してたお前に対して、
第三次北伐が春に終わってないとおかしい、と説明してやったのは俺だ。
しかもそれでグロッキーして認めてたくせに
そうやって自分の妄想全開を否定された経緯をいけしゃあしゃあと曲解して発言して
いい加減やってる事さもしいと思わないわけか?
まあ、そこらへんの厚顔無恥さがネット廃人の馬鹿丸出したる所以なんだろうけどな。
しっかも、それ以前からお前の妄想全開の愚論に対する突っ込みは続いているのに
まるでそのレスから始まったかのような物言い。そんなに自分が論旨を粉々にされた事実を
無かったことにしたくてしょうがないのか?馬鹿も休み休みいえよ。

とりあえず、曲解して寝言を言い出す前に自分の言ってる事の整合性をさっさとつけてみろよ。
664無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/02(日) 08:18:31.47
>>661
諸葛亮は本気で陳倉を奪いに行った,だから陽動ではあり得ないと言っているのですが。
本隊が食料をあまり持たなかったのは,少しでも行軍を早めるためでしょう。
石亭の敗戦で曹魏側に隙ができたために,真冬の秦嶺山脈越えも厭わず出撃したのですから。
>>636氏が言われるとおり,補給部隊は後から動いたのでしょう。陳倉を確保すれば何とでもなりますから。

>>653
何度でも繰り返しますが,武都郡が放棄されてたことは楊阜伝をまともに読めばわかります。
違うと言い張るのでしたら,いいかげん郡治を「戻した」根拠を示してくださいよ。
そもそも統一王朝だった後漢、西晋と,分裂期だった三国の状況が全く同じなわけないでしょう。

>>663
>六年春,亮出攻祁山,不克。冬,復出散關,圍陳倉,糧盡退。魏將王雙率軍追亮,亮與戰,破之,斬雙,還漢中。
>七年春,亮遣陳式攻武都、陰平,遂克定二郡。(後主伝)
これで王双を斬って漢中に帰ったのが「六年冬」より後だと言えるのでしたら,
2郡を平定したのが「七年春」より後と言うことは可能でしょう。
あなただって>>491でこう言っているじゃないですか。
>よって、諸葛亮が丞相に復帰したのは、ひいては2郡攻略に成功したのは
>常識的に考えれば「最低でも」4月前後と考えるのが妥当、ってな話になる。
確かに第2次北伐と第3次北伐を別作戦とするための勇み足があったかもしれませんが,
少なくとも2郡平定が「七年夏」だった可能性は否定されないでしょう。
665 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/02(日) 15:35:25.06
>>664
武都郡は放棄されてないってば

放棄と人口確保のための移住は別
曹操は漢中住民も移住させてるけど放棄ってならんだろ?
それと一緒
666無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/02(日) 15:37:27.11
>>664
夏だった可能性があるならその可能性があることを示す明確な典拠出せよ
「可能性がある」なら「男って書いてないから趙雲は女だった可能性がある」って言ってるようなもんで
「可能性だけ」しかない状態だろ
667無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/02(日) 17:55:11.70
>>666
春に終わっているってのも可能性があるだけで
春に終わりましたって記述はないだろ
どちらも「可能性だけ」しかない

そもそも、派遣して占領まで春内にできる程度の所でしかない二群の攻略に
数万の軍を陳倉に陽動で派兵するなんて、費用対効果を考えないたわけた考え
そもそも陽動になってない
668無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/02(日) 18:53:51.98
>>667
春の出来事で侵攻と攻略って書いてあるけど?

可能性しか?バカ言えよ
典拠があるだろうが
669無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/02(日) 22:59:03.30
>>668
へぇ、じゃあ二次は冬に出撃して冬のうちに漢中に帰還したってか?

12月に出撃で20数日攻勢して12月内に漢中に戻るかw
670無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/02(日) 22:59:03.85
>>664
だから具体論出せと言ってる。
今の所、お前が妄想と願望で発狂してるだけで、ろくな根拠も論旨も出せてないぞw
>補給部隊は後から動いたのでしょう。陳倉を確保すれば何とでもなりますから。
それが寝言だとこっちが何度も説明してやってんだろ。補給部隊が動いたなんて形跡はどこにもない。
河南なんていう陳倉から滅茶苦茶に遠い地帯にいる張コウにすら
「自分が着く前に蜀軍は兵糧が尽きて退いてますよ。蜀軍の兵糧は残り10日分くらいしかありませんから。」と
はっきり言われてる状態。補給部隊が動いている形跡なんかどこにもない。
そんなものがあるなら、もしも陳倉を攻撃するのが陽動策戦でないというのなら
陳倉を攻撃してる20数日の間に後方から補給部隊を到着させればそれでよかった。
でも実際はそんなこと全然してないわけで、張コウの推測通りにわずかの兵糧だけ抱えて
それが尽きたらさっさと帰ってる。これじゃあ占領したって維持できない。
いい加減、これに対する解答を整合性つけて答えてみろよwwどうせむりだろうがなww

>何度でも繰り返しますが,武都郡が放棄されてたことは楊阜伝をまともに読めばわかります。
何百回でも言ってやるが、楊阜伝にあるのは一部の住民を移住させた事であって
武都自体を放棄したわけではない。晋の時代には明確に漢代から継続され、
諸葛亮によって攻略された、武都郡範囲とほぼ変わらない範囲が
「漢代から置かれてる郡です」と書かれて紹介され、人口もしっかり明記され
しっかり継続されてる郡である事を示している。武都が放棄されたものならば、
その同じ地域に人口がいるのはおかしいよな?筍みたいに人口が生えてくるわけないんだから。
これだけ論拠があれば、武都が楊阜によって人口移住はされつつも、放棄はされてなかった事が明確にわかる。
いい加減、お前はこれだけ史実と矛盾が出まくりな状況を、さっさと整合性付けてこたえてみろよww
無理だとお前自身がわかってるから、必死に逃げ回るしかないんだろうば無様だなww
(続く)
671無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/02(日) 23:07:40.82
>>669
他人へのレスではあるが、横から突っ込んでやるw

お前が挙げてる例示はまったくもって不適当なんだよ、馬鹿丸出しのネット廃人w
資治通鑑では春の項目において、諸葛亮が2郡を平定して帰還し、その功績を報告し
そこから劉禅によって再度丞相に任じられる、という次のスケジュールまでまとめて
記載されてるんだよw「春」という一つの項目の中になw
2郡平定だけならまだしも、その後の丞相復帰まで「春」という項目のなかで完結してるのに
夏まで続いてたなんていうのはどっからどう見ても不自然になるわけだけど、
馬鹿丸出しのネット廃人のお前の妄想世界ではどうやって整合性付けてるんだ?w
ほらほら、いつもの妄想で発狂して笑わせろよww
672 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/02(日) 23:21:43.83
>>664宛続き

俺がいったのは「最低でも」だぞ?
俺はあえて第三次北伐が長引いたとか言ってたお前さんに対して
「最低でも」という観点から第三次北伐成功の上限がどこにあるか、
という観点からの絞り込みをしていって「最低でも4月前後」といったわけだ。
ぶっちゃけ、この「最低でも四月前後」という時点で夏にちょっと入っただけ、
というくらいが精々だって事はわかるよな?しかもこれでさえ「最低でも」だからな?
で、常識的に考えていくならば、資治通鑑では諸葛亮が2郡を平定し、
その功績を報告し、その功績を劉禅から称えられ、それを賞されて丞相に復帰する、
という一連の戦後イベントも「春」という一つの季節項目で完結してるわけだ。
孫権皇帝即位問題から考えてみれば、「最低でも四月前後」
資治通鑑には戦後イベントまで「春」という項目の中で完結してる事、
戦後イベントが消化されるタイムスケジュールを考えてみるならば、
「常識的に考えてみるならば」、「お前さんにものっそい甘目に考えても」
少なくとも2郡攻略は「春」の中で完結してると見るのが妥当と見られるわけだ
673無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 20:42:12.33
>>670
ですから,具体的な根拠は徹頭徹尾ちゃんと挙げているじゃないですか。
>阜威信素著,前後徙民、氐(テイ),使居京兆、扶風、天水界者萬餘戸,徙郡小槐里,百姓襁負而隨之。
「徙郡小槐里」を郡の役所を遷した以外にどう訳せって言うのでしょうか。
これを理解していないのはあなただけでしょう。

>武都が放棄されたものならば、その同じ地域に人口がいるのはおかしいよな?
おかしいのはあなたの頭ですよ。
曹魏側は政治的に放棄したのですから,それに従わなかった人がいたっておかしくはないでしょう。
だって蜀漢側が奪った後にすら,武都から曹魏に降った人だっているのですが。
(武都の氐族が仲間割れして,蜀漢と曹魏にそれぞれ降伏したのですが。)
支配者が統治できない人々なんてあたりまえのようにいたのですよ。
そんなの諸葛亮死後も苦労している南中統治を見れば一目瞭然だと思うのですが。
674無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 20:44:08.25
>>671
横レスするのもなんですが,
>資治通鑑では春の項目において、諸葛亮が2郡を平定して帰還し、その功績を報告し
>そこから劉禅によって再度丞相に任じられる、という次のスケジュールまでまとめて
>記載されてるんだよw「春」という一つの項目の中になw
資治通鑑を根拠に第3次北伐を229年春のことと限定するのでしたら,
第2次北伐は当然228年12月中に終わっていなければならないのですが。
この後は同年における時期不明の記事(公孫淵の権力奪取と呂範の大司馬就任)を挟んで,
もう太和三年の記事が始まるのですから。
せめて前後の記事くらい読んでから持ち出されたらどうでしょうか。
675無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 20:54:58.51
>>674
二次は12月中に終わってる

諸葛亮伝中には劉禅が諸葛亮を賞賛して丞相への復帰を命じる詔勅があるんだけど
その中で「昨年中の遠征では王双を切り」と明確に書いてある

前年燿師,馘斬王雙;今歳爰征,郭淮遁走
676無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 21:01:51.28
>>675
確かにそうなんですけどね。それを理解できない人だっているのですよ。
(まあ前から言っているとおり,漢中に戻ったのが翌年だった可能性はありますけどね。
だったら2郡奪って丞相に復帰した頃には夏だった可能性は否定できないでしょうってことですが。)
677 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 21:35:50.64
>>676
それを理解できない人?誰のこと?
>>675で「12月中に終わらないといけない」って言ってる人くらいじゃない?
678 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 21:38:46.83
12月中に終わらないといけないって言ってる人は>>674だったね
679無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 22:07:00.18
>>673
だからこっちは何度も何度も説明してるだろう。
お前の妄想である「武都は放棄されていた!
武都は京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落になった」という寝言は
晋書の地理志に武都が「漢代から置かれている郡です」と書かれ、
さらに人口がちゃんといて、さらに漢代とほぼ変わらない範囲である事が明記されてる時点で
お前の妄想と完全に矛盾するだろ。
お前の妄想と違って武都は晋代まで、さらにはその後にもしっかりと稼働してるから。
いい加減、お前はこの史実とお前の妄想との矛盾をきちんと整合性付けて説明してみろよw
どうせ無理なのはわかってるが、何度でも聞いてやるからなww

いんや、どう見てもおかしいのはお前の頭。
武都は晋書に漢代から置かれている郡だと書かれているし、
その地域範囲もこれまた漢代とほぼ変わらない。
少なくとも、お前が妄想するような、「京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落になってる」
とかいう事にはこれっぽっちもなってない。
しかもその人口はお前がいうような「支配に従わない民」の事ではなく、
正式な戸数であり、お前の言っているような論旨とは明確に矛盾する。
さらには蜀漢側には武都・陰平の平定はしっかり書いてあり、
魏側も武都太守の役職は一部住民の移住後も継続されている、
さらには蜀側に侵攻された時は魏側は急いで救援に来ている、
これらは全てお前の妄想するような、「魏が武都を放棄した、すっからからんだった」とかいう
寝言と明らかに違う事実を示している。
これらの史実が示しているのは、武都にはちゃんと人口がいて、
一部住民が移住した後も、普通に郡として稼働していた、という単純な事実でしかない。
今の時点で相違点が出まくりの、お前の妄想をさっさと整合性つけて答えてみろといってんだよw
早くしろよw逃げられると思うなよww
680 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 22:12:04.36
>>674
横レスも何も、お前本人じゃん。
第2次北伐は蜀漢側の記述でしっかりと12月のことだって書いてあんじゃん。
そもそも最初に「第三次北伐は夏まで続いてた!」と主張して
その為に第2次北伐が12月でどうたら、と言い出してるのお前じゃん。
12月で完結したと認めちゃうなら、お前の「第三次北伐が夏まで続いてた!」論は
完全崩壊じゃん。本当に自爆が好きな奴だなw
で、結局お前はこれでどうやって自身の主張に整合性つけるのか、とっても楽しみだから
早くやってみてねw
ああ、それからまるっとスルーしてるけど、>>672を早く答えてみてねw
馬鹿丸出しのネット廃人が都合悪い所だけスルーして逃げられると思わないでねww
681 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 22:17:18.49
>>676
横レスだけど、お前一体何を言ってんの?
お前が「第三次北伐が夏まで続いてた!」とか言い出して、
その為に12月に第2次北伐がどうたら、と言い出したんだろ。
お前がそれを認めた時点で、「第三次北伐は夏まで続いてた」論は崩壊してしまうのに、
これでどうやったら、お前の妄想に都合のいい事柄だと解釈できるんだ?
いくらネット廃人で馬鹿丸出しだからって、少しはお前の馬鹿丸出しの妄想論旨と
史実関係の整合性と、それに対する説明論旨を普通に解釈しようとしない、ご都合妄想じゃ
整合性つけられなくなって発狂続けるだけにしかならないってまだわからんのか?
いい加減滑稽すぎなんですけどww少しは整合性をつけて説明してみてねww
682無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/04(火) 21:38:42.22
>>679
私みたいな凡人には,正直なんで楊阜伝やら武都郡の人口やら,
そもそも議論になり得ないことをここまで問題にしているのかがよくわからないのですが。
前にも言いましたけど,こんなの東洋史では「常識」なんですよ。「諸葛亮史」では無視されているだけで。
確かに諸葛亮信者にとっては聞きたくない話でしょうけど。

まぁ後漢→西晋の人口動態を見せられて発狂する人に何言っても無駄ですかね。
もっとも私にとって,諸葛亮信者がどれだけ狂っていても知ったこっちゃありませんが。
683無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/04(火) 21:54:08.77
>>682
常識だっていうならその根拠出してみろよ

お前の常識が世間の非常識なだけかもよ?
684無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/04(火) 22:10:26.40
>>683
あなたに読めるかどうかは分かりませんが,呉増僅『三国郡県表』とか李暁傑『東漢政区地理』ですかねぇ。
陳健梅「魏蜀対峙中関隴的政区建置与軍事方略」なんてまずわからないでしょうし。
日本語論文でしたら津田資久「「曹真残碑」考釈」が若干触れている程度ですが。
(確かに世間にとっては非常識かもしれませんね,
だって三国時代史なんて諸葛亮視点でしか見ていない人がほとんどですから。)
685 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/04(火) 22:21:15.77
>>682
こちらとしては、晋代にまで継続されていて
晋書にはっきりと「漢代から置かれている郡です」と書いてあって
範囲も漢代とほぼ変わらず、人口まで明記されてる武都が、
貴方の妄想世界による妄想超越解釈によって
「完全放棄されてすっからかんになっていた」
「それ以後の武都とは京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落の事を指しているのである(キリ)」
という、史実と明らかに矛盾しまくりの妄想を勝手に妄想世界で結論付けている事に対して
史実から見ての突っ込みを入れているわけでして。
へえ、「常識」なんですか。その割には史実では明らかに矛盾する動きが出まくってるわけですが。
とりあえず、何をもって「常識」と言われるのか根拠よろしくですな。
ぶっちゃけ、貴方の史実と矛盾しまくりの妄想解釈が常識とはとてもとても。
なんかこう、貴方って毎度毎度「常識」と言い出すときは大抵、貴方の妄想世界だけで常識、と
騙ってるケースが多いように思えるので、そこら辺をちゃんと説明してもらいたいですな。

いつ発狂したのやら。どう見ても発狂してるのは、諸葛亮に武都・陰平が攻略された事を認めたくなくて
武都がすっからかんだと主張せずにはいられなくて、晋書にも普通に武都が
「漢代から置かれてる郡です」とほぼ変わらない範囲で書かれてて
貴方の妄想するような京兆、扶風、天水にまたがるような位置になんぞ移転してなくて
さらには「すっからかんになった」はずなのに人口までしっかりいるという事実を認められずに発狂してるようにしか
みえないわけですが。ああ、貴方の中だとすっからかんの土地でも
人口って筍みたいに生えてくるもんなんでしたっけ?そういう方にはちと論議をするのは
いろいろと大変かもしれませんな。妄想と妄信が史実の壁に阻まれてしまってるようで
苦悩もさぞ深い事と推察されます。
結局、貴方の妄想論旨と矛盾する数々の相違点に関しては
貴方は整合性を付けて説明する事は無理、という事でよろしいでしょうかね。
686 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/04(火) 22:26:07.00
>>684
はいはい。
書名だけあげるんじゃなくて、ちゃんとその内容と論旨を説明してみそ。
その上でしっかりと語りたい事があるなら語ればいいだけの話。

ああ、非常識って事をご自分でお認めになるわけですか。そりゃ結構。
結局のところ、貴方の妄想と違う史実があって、それに対する研究者の常識的な解釈が
あるだけの話でしかないかと思われますが。
しかしまあ、世間でいう所の研究者の大半を諸葛亮視点とおっしゃるとか
さすがにはそれは発狂も度がすぎるのではないかとww
687 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/04(火) 22:27:34.23
>>682
というか、他の事に関してのレスはどうしたの?
そうやって突っ込みやすそうな所にだけ突っ込んで粘着する癖やめろと
何度もいわれてるよね?ネット廃人さん
688 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/04(火) 23:22:52.03
>>684
で、その本とかは何を典拠にしたんだろね

その人らの本は読んだことないけど仮に正しいとするのであれば矛盾も生じるね
上でも何度も言ってるように武都の郡治まで移動してたら諸葛亮がおかしな事になるってね
郡治まで移動したというのであれば読んだ事のない俺に
その書籍から引用して見せてくれないか?
689無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 20:30:00.06
まぁ『三国志』本文すら曲解する諸葛亮信者には難しすぎましたかねぇ。
いずれも楊阜伝を挙げて,武都郡治が扶風郡小槐里に遷されたことを示しただけです。

『三国郡県表』は後任の武都太守韋誕を挙げて,それも「遥」だけど「僑」ではないと言います。
でもこれは,229年まで奪われなかったから武都郡としての土地はあったというだけで,
実際には統治できてなかったということでしょう。李氏と陳氏は基本的にそれを踏襲しています。

津田氏の場合は,231年に死んだ曹真の顕彰碑を主題としていますので若干異なりますが,
その碑に「下辨長」という官位が見られることに対して,
武都郡治は楊阜の時点で扶風郡小槐里に遷されているから,
本来その武都郡治があった下辨県も同じ小槐里に遷されたと推測するものです。
逆に言えば,実際に奪われた後ですら武都郡下の県長がいたということですが。

残念ながら薄っぺらい私にはこの程度しか示すことはできません。
しかし,第3時北伐当時の武都に太守がいたなんて根拠がどこかにあるのでしょうか?
690 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 21:01:05.93
>>689
郡治が移動したら武都郡占領されたらおかしなことになるだろ
691 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 21:03:31.44
>>689
特に書かれてない限り郡には太守がいるもんでは?
いないというのであればいないと書いてある文章こそ提出しなければならないよ

あと遥任知らんでアホみたいな事抜かしてるな
692 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 22:34:33.00
>>689
史実を曲解してるのはあんたでしょ?w
いやー、ご自分の妄想と違う史実を認める事にさぞ苦悩なさっていると推察されますなw
で、その郡治が移動したとして、あんたの言ってるような
「それ以後の武都とは京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落の事を指しているのである(キリ)」
という事実はどこにも散見されないわけですがw
晋書においては普通に武都について「漢代から置かれている郡です」と
はっきり書かれてるわけで、その範囲も漢代とほぼ変わらないわけでしてw
どう見ても貴方の言ってるようなみょうちきりんな範囲には移転してないようなのですが?w
これについてさっさと答えてみなさいよw逃げ回ってないでw

実際には統治できてなかった?w楊阜は普通に住民を一部移住させた後も
明帝時代になるまで継続して武都太守を務めてるわけですが、ここら辺の整合性を
どうやってとるのでしょうか?w是非ともご説明お願いいたしますw

ほほう、下辨県も移住されたと。でも残念ですな~。晋書の地理志には
はっきりと武都の範囲として漢代からほぼ変わらない位置にある諸県のうちの一つとして
「下辨県」が入ってるわけなんですがwあんたの中だと、この下辨県はどこにあるのでしょうか?w
やたらとちぐはぐな範囲を統括してるのですなあ、貴方の中の晋における武都郡というものはw
というか、ぶっちゃけた話、益州を収めてもいない曹操時代の曹操陣営に
益州刺史が存在するわけですから、最後に曹真が蜀攻略を目指して死亡したのを踏まえると
下辨県の奪還を目指しての、仮の下辨長という風にも見えるわけでしてね。

それいったら、当時の魏の勢力範囲における太守はほとんど不明ですけど、
貴方の中では魏の勢力地のほとんどは放棄されてた事になるんですか?w
中々に愉快な発想ですなww
693無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/06(木) 20:53:58.05
あのですね,武都郡治が遷されたことは楊阜伝に明記されているのですよ。
>楊阜は平素より権威と信頼をかちえていたので,前後にわたって住民と氐(テイ)族を移動し,
一万余戸を京兆・扶風・天水の区域に住まわせ,郡庁を小槐里に移した。
(漢文は散々挙げましたので,井波律子訳『正史 三国志4』121ページから引用しました。
これすら理解できないのでしたら,日本語掲示板であるここにいる資格なんてありません。)
694 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/06(木) 20:58:41.05
>>693
じゃ武都が落ちたってことはそこが落ちたんだ
695無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/06(木) 23:01:29.31
>>693
いや、だからね。こちらは何度も言ってるわけですよw
移民をさせた事は書いてあっても、
貴方の言ってるような「それ以後、武都とは京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落の事を指しているのである(キリ)」
というみょうちきりんな解釈に至るところはどこにもないわけですよw
武都には晋代にも普通に住民がいて機能してて、漢代と範囲もほとんど変わらなくて
晋書の地理志においては「漢代から置かれてる郡です」とはっきり書いてあって
貴方のいうような三郡にまたがるみょうちきりんな範囲になってるなんて事はないわけですよw
というか、武都が無人の放棄地帯だったならカクワイがわざわざ救援に来る必要ないですし、
そもそも楊阜って明帝時代まで武都太守やってるんですけどww
日本語日本語と何度も発狂なされているようですが、貴方の言ってる妄想願望と
史実におけるこれらの明確な矛盾に対して、さっさと整合性をつけて答えてくださいな、と
こちらは何度も言ってるわけですよw
日本語日本語と連呼されてるんですから、こちらの日本語文章読解を怠ることなく、
ちゃんと理解しているんでしょう?w
それなのにどうしてあなたの論旨と史実における矛盾点について整合性をつけて答える事を
やってくれないんですか?w
ご自身が主張なされる「日本語掲示板にいる資格」とやらにかけて
さっさと答えてくださいよ~w
696無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 20:00:43.11
頭のおかしい人には何を言っても無駄なのかもしれませんが。
>>695
>貴方の言ってるような「それ以後、武都とは京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落の事を指しているのである(キリ)」
>というみょうちきりんな解釈に至るところはどこにもないわけですよw
『三国郡県志』等が言っているのはまさにそのようなことなのですが。

>そもそも楊阜って明帝時代まで武都太守やってるんですけどww
楊阜が武都太守を務めた場所が扶風郡小槐里だと理解されているのですが。

あなたが思っている「正しいこと」自体が狂っているのですよ。
697無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 20:25:15.41
>>696
いやいや、こちとら妄想論旨で発狂なされている方に懇切丁寧に教えてあげるの大変だと感じておりますよw

いや、言ってないよ。
あんたの出した文章から見るに、「移民した事」は認めてても
「それ以後、武都とは京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落の事を指しているのである(キリ)」
なんて事はどこにも書いてないんだけどw

で、その楊阜が統治した武都郡が、あんたの言うような
「京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落の事」なんて事はどこにもないわけで。

で、何度も言うように、まるっとスルーしてるみたいですが
武都には晋代にも普通に住民がいて機能してて、漢代と範囲もほとんど変わらなくて
晋書の地理志においては「漢代から置かれてる郡です」とはっきり書いてあって
貴方のいうような三郡にまたがるみょうちきりんな範囲になってるなんて事はないわけですよw
というか、武都が無人の放棄地帯だったならカクワイがわざわざ救援に来る必要ないですし、
という点についてちゃんと整合性をつけて説明してみてくださいねw気長に聞いていきますのでよろしくw

少なくとも史実と矛盾しまくって妄想で発狂している方からすれば
正常な論旨というものはいささか以上に認めがたいものかもしれませんなww
698無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 20:53:46.86
論文を手打ちするのはめんどくさいのですが。
>>697
>武都郡は主にテイ族統治を行う郡であるが,
>巻25・楊阜伝によれば漢魏交替期から扶風郡の小槐里に移置しており,
>これに伴い本来郡治が置かれていた下辨もここに僑置されたものと考えられる。
(津田資久「「曹真残碑」考釈」89ページ)
少しぐらいは文章を読まれることをお勧めします。

>貴方のいうような三郡にまたがるみょうちきりんな範囲になってるなんて事はないわけですよw
もはや何が言いたいのかすらもう分からないのですが。
後漢の漢陽郡が天水、南安、略陽(曹魏の広魏)3郡に分割されたことを言っているのでしょうか?
699無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 21:25:25.18
>>698
ですから、それでもって武都郡自体が放棄された、なんてことには
到底なってないわけでしてw武都にはいくつも県があって、それは晋代にちゃんと
継続されてるわけでしてw
何度でも書いてあげますが、武都には晋代にも普通に住民がいて機能してて、漢代と範囲もほとんど変わらなくて
晋書の地理志においては「漢代から置かれてる郡です」とはっきり書いてあって
貴方のいうような三郡にまたがるみょうちきりんな範囲になってるなんて事はないわけですよw
というか、武都が無人の放棄地帯だったならカクワイがわざわざ救援に来る必要ないですし、
という貴方の主張との明快な相違点にちゃんと整合性をつけて答えてもらいたいもんですなあw
というかですね、貴方ってそもそも郡治が移動した、が主張じゃなかったんですか?w
本当にころころ変わる人だと感心ですが、ちゃんと整合性付けた解答をしてくださいねw

確かに、ネット廃人である貴方の妄想願望は常人にちょっと以上にわかりにくいかもしれませんねw
「移民がなされたそれ以後、
武都とは京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落の事を指しているのである(キリ)」 という
貴方の妄想願望主張は、貴方がしっかりと主張なされてきた事であって
私としても不可解極まりないものでしたが、貴方がここまで発狂する以上、
最後まで問い詰めてあげようと思っている次第ですので、ちゃんと整合性をつけてみてくださいねw
700無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/08(土) 07:40:53.40
>>699
>貴方のいうような三郡にまたがるみょうちきりんな範囲になってるなんて事はないわけですよw
これは武都郡民が京兆、扶風、天水にまたがって移住したことを指していたのですか。
それは勘違いしていましたのでお詫びします。

武都が放棄されていたとする主張をいくつか。
>操蓋巳棄武都而不有矣(『資治通鑑』建安二十四年胡三省注)
>建安二十四年,武都徙治右扶風境内,郡原領諸県皆棄。(李暁傑『東漢政区地理』195ページ)
701無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/08(土) 08:19:37.95
>>700
武都が放棄されてるなら何故郭淮は救援に出たのだろう

それと武都が放棄された、だけでなく君は郡治も移動したと言ったよね
では諸葛亮が落とした武都とはどこになると思うの?
702 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/09(日) 01:13:00.35
>>700
いや、移住した事だけじゃなくて、
貴方は「移民がなされたそれ以後、
武都とは京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落の事を指しているのである(キリ)」
と明確に言ってるわけで。

資治通鑑でも本文には住民の一部を移住させたとはあっても
全部放棄したとはいってないのだけど。
結局のところ、武都には晋代にも普通に住民がいて機能してて、漢代と範囲もほとんど変わらなくて
晋書の地理志においては「漢代から置かれてる郡です」とはっきり書いてあって
郭淮がわざわざ救援にきているという明確な事実の否定に
なってないと思うわけよ。これどう思うわけ?
703無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/09(日) 08:09:18.25
>>701
太守以下役人と住民が逃げ出しただけで,土地そのものは一応曹魏側に属していましたから。
>>528,>>533,>>538で触れたとおり,第1次と同様に天水郡まで来ると思って待ち構えていた郭淮が,
相手が武都郡の攻略を始めたのを見てあわてて救援に向かおうとしたところを,
諸葛亮の牽制を受けて断念したってところでしょう。

諸葛亮が落とした武都とは,太守等が逃げた後の土地のことです。
統治機構としての郡と,場所としての郡が分離していたのですよ。
勘違いしている人がいるようですが,その土地に誰もいなかったわけじゃないですよ。
最初から後漢にも曹操にも従わなかった人や,後から入ってきた人はいたでしょうから。
当時の政治権力に,領域内に存在するすべての人を統治する力なんてあり得ません。
そういう人がいたからって,その土地が権力によって統治されていたとは言えないのです。
704無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/09(日) 09:24:58.05
>>703
その武都はどこ?って話だぞ
「そういう守備が困難だから」人を移すってところまでは正史にちゃんと載ってるよ
問題はお前は人民移したってだけでなく放棄した、て主張してるだろ
しかも武都は郡治移転したとも言ったな
移転してるなら武都は諸葛亮が制圧してるんだから、諸葛亮が物凄いところまで進軍してたことになる
ありえないから郡治が移動してないって話になるんだけど?

それからさー守れなくて放棄した箇所に敵が占領に来たら守りに出る?
えーと多分君か魏の首脳陣がキチガイってことだよね
705 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/09(日) 19:39:47.27
>>703
おいおい、>>702に対する解答はどうした?
二人の人間を相手にしてるって事わかってる?

>>704の人も言ってるけどさ、放棄したはずの土地を諸葛亮が攻略開始したら
慌てて守りに来るって、明らかに矛盾してるだろ。
放棄してる地点ならわざわざ慌てて守りに来ないだろ。この時点でおかしい。

>統治機構としての郡と,場所としての郡が分離していたのですよ。
つまり、さんざんお前さんがいってた「移民がなされたそれ以後、
武都とは京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落の事を指しているのである(キリ)」
って論旨はひっこめるって事でいいわけ?
>そういう人がいたからって,その土地が権力によって統治されていたとは言えないのです。
晋書地理志に書いてある武都の位置は諸葛亮が攻略した位置とほぼ変わらず、
人口もちゃんと「戸数」で記されている。「戸数」というのは徴税対象なので
明確に統治対象として認識されてる事になる。
なんだって放棄された土地に徴税対象としての「戸数」でカウントされた人間達がいるんだよ。
明らかに統治対象としての人口が存在してるだろ。
しかも、放棄したといいつつも、敵側に攻略されそうになると郭淮が慌てて助けに来るとか、
矛盾しまくりだろ。いい加減、無理あるって認めろよ。全然整合性ついてないじゃん。
706無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 21:06:16.66
>>704
だから言っているじゃないですか。
楊阜が郡治を小槐里に遷した後に太守を務めた武都郡は,京兆、扶風、天水各郡に移住した住民に対する「統治機関」で,
諸葛亮が陳式を遣って奪った武都郡は,役人と(曹魏に従う)住民が去った後の「地域」なんですよ。
そもそも隣接すらしていない小槐里まで行って,どうやって武都郡の「地域」を統治するのですか。

確かになぜ移住先の郡が統治しないのかという疑問は分からないでもないです。
個人的には住民を大人しく移住させるための懐柔策だったと思います。
威信のあった楊阜だからこそなし得た業でしょうが。

>>705
あのね,西晋期にどれだけ統治されていたからって,
三国時代初期も同じように統治されていたとは限らないでしょう。
『晋書』地理志の戸数って太康年間(三国統一直後)の数字なのですが,
諸葛亮が奪ってからでも半世紀経っているのですよ。
707無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 21:36:54.08
>>706
>>704の人は別人だけど、突っ込んでおく。
>楊阜が郡治を小槐里に遷した後に太守を務めた武都郡は,京兆、扶風、天水各郡に移住した住民に対する「統治機関」で,
こんな史実はない。三郡にはそれぞれ統治太守が既にいる。
こんな3郡にまたがったみょうちきりんな範囲になってるなんて史実はどこにもない。
>そもそも隣接すらしていない小槐里まで行って,どうやって武都郡の「地域」を統治するのですか。
ああ、この時点で三郡にまたがるみょうちきりんな範囲を統治する事が無理、って事は理解してるわけだね。
よかったよかった。

その疑問は簡単に解決できるだろ。そんな史実はない、で。
どっからどう見ても史実と矛盾してるし。

で、魏が完全放棄したはずの場所に、筍みたいに住人が発生して統治対象である戸数を形成し、
完全放棄されてるはずの無人地帯であるにも関わらず、蜀軍にとられそうになると魏将が慌てて守りにくると。
さらにはお前さんのいうような3郡にまたがるみょうちきりんな範囲の「武都」は
歴史に一切登場せずに勝手に発生して勝手に消滅したと。
ぶっちゃけ、お前さんの妄想世界にだけしか存在しない、と見た方がはるかに納得できるんだけど。
今回も滅茶苦茶な解答してくれたけど、とりあえず早く矛盾点に整合性つけて答えてね。
708無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/12(水) 21:50:40.54
>>707
>>そもそも隣接すらしていない小槐里まで行って,どうやって武都郡の「地域」を統治するのですか。
>ああ、この時点で三郡にまたがるみょうちきりんな範囲を統治する事が無理、って事は理解してるわけだね。
>よかったよかった。
あなたが理解できようができなかろうが,
武都郡治が扶風郡小槐里に遷ったのは史実ですよ(楊阜伝に対する反証が存在しない限り。)。

史実に目をつぶって第2次北伐は第3時北伐の陽動作戦だったと言い張っても,
あなたの異常さを示す以外の何物でもないのですが。
709 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/12(水) 22:23:19.79
>>708
郡治を移動したとは書いてないけどなー
710無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/13(木) 20:51:53.13
>>708
いや、だから何度も言ってるけど、仮に郡治を移動させたと仮定しても
お前さんの言うような「移民がなされたそれ以後、
武都とは京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落の事を指しているのである(キリ)」
という史実はどこにもないわけよ。晋代にも普通に漢代から続いている範囲とほぼ変わらない武都が
普通に存在しているわけで。他にもお前の言ってる事がおかしいってのは
散々相違点あげてやったろうが。いい加減、矛盾点出まくりのお前の妄想と史実の各相違点に
整合性をつけて答えてみろって。

で、魏が完全放棄したはずの場所に、筍みたいに住人が発生して統治対象である戸数を形成し、
完全放棄されてるはずの無人地帯であるにも関わらず、蜀軍にとられそうになると魏将が慌てて守りにくると。
さらにはお前さんのいうような3郡にまたがるみょうちきりんな範囲の「武都」は
歴史に一切登場せずに勝手に発生して勝手に消滅したと。
ぶっちゃけ、お前さんの妄想世界にだけしか存在しない、と見た方がはるかに納得できるんだけど。
今回も滅茶苦茶な解答してくれたけど、とりあえず早く矛盾点に整合性つけて答えてね。

結局、お前の妄想と違って、諸葛亮の陽動作戦だった、で充分FAつくだろ。
完全放棄した地点であるはずなのに、蜀軍に攻略されそうになると魏将が慌てて助けにくるんですかww
もういい加減無理あるって気が付けよww
711無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/15(土) 10:08:14.95
>>710
楊阜伝に対する反証を挙げない限り,郡治移転は否定できません。
また半世紀も後の西晋期に郡が存在していたからといって,
曹魏側が一度放棄したことを否定する根拠にはなりません。
郡治移転後も武都郡が本来の地で機能していたことを立証できなければ,
あなたがどれだけ妄想を語っても何の意味もないのですよ。

武都郡は第1次北伐で諸葛亮が往復したにもかかわらず,
撃破されなかったどころか,抵抗も降伏もしませんでした。
諸葛亮は武都郡を素通りしただけで手を出さなかったのですよ。

しかも孫呉側に惨敗した曹魏側が戦力を東方に向けていたこの時点で,
西の辺境を奪うのに陽動作戦を仕掛けるバカがどこにいるのでしょうか。
712 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/15(土) 22:57:30.24
>>711
いや、だから仮に郡治を移動させたと仮定しても
それで「移民がなされたそれ以後、
武都とは京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落の事を指しているのである(キリ)」
という史実はどこにもないわけよ。お前の言うような三郡にまたがるみょうちきりんな範囲の
「武都」という地域はどこにも史実的痕跡がないんだから。
晋代にははっきりと「漢代から置かれてる郡です」とはっきり書いてあって
人口も租税対象としての戸数で表記されてる。さらにその範囲も漢代からの地域とほぼ変わりない。
これでお前の完全放棄論は明確に矛盾する。
さらにいうなら、お前の妄想世界において、武都は魏側から完全放棄されてるはずなのに、
諸葛亮が攻略しそうになると、魏側が慌てて救援に来るとか、明らかに矛盾しまくりだから。
ぶっちゃけこれで充分、「移民後でも武都が本来の地域で機能していた」と十分に納得しうるぞ。
お前の妄想が発狂して認めてないだけでな。
そうでないというなら、さっさとこれらの相違点と矛盾点について、
ちゃんと明確な史実との整合性をつけて説明してみる事だな。
ネット廃人であるお前の妄想願望はどうでもいいから。

だからどうした?実際にその後でしっかりと攻略してるが?

馬鹿じゃないだろ。東方軍がやられたからって、西方軍がやられたわけじゃないんだから。
張コウをわざわざ呼び寄せて出撃させる程に必死だしな、魏も。
まあ、必死で魏を妄想崇拝せずにはいられない馬鹿丸出しのネット廃人さんが
諸葛亮の掌の上でころがされた事を認めたくなくて発狂しちゃうのはわかるけどなww
713無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 17:49:49.07
いつまでループしてるんだ
いい加減にしろ
714無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 20:40:03.33
>>713
動物並みの知性しかない人にはですね,動物並みにしつこく教え込むしかないのですよ。
(そこまで相手するつもりは毛頭ありませんが。)

>>712
ですから,楊阜が郡治を小槐里に遷した後も武都太守を務めていたと記されることは,
まさに「京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落」が「武都郡の実態」だった証左でしょう。
(もちろん移住先の各郡は各郡で存在していたでしょう。
武都郡からの移住者だけが「武都郡民」として処遇されただけで。)
楊阜伝の記載はそのまんまですし,『三国郡県表』等もそれに従っているだけです。
それを認められない(正確には認めたくない)誰かさんが発狂しているだけで。

>馬鹿じゃないだろ。東方軍がやられたからって、西方軍がやられたわけじゃないんだから。
曹叡は石亭で惨敗した後,わざわざ部下に良将を推挙させました。
曹魏側の軍事力がどれだけ危機に瀕したのかがよく分かるでしょうに。
怪しげな「後出師表」がくっついているので信憑性には疑問がありますが,
『漢晋春秋』によれば,諸葛亮が曹魏側が兵力を東に向けた結果,
関中が手薄になったことを聞いて第2次北伐を行ったとされます。
だからこそ西端とはいえ関中の陳倉を奪えると考えて突撃したのですよ。
曹真に読まれて失敗しましたが。
715 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 21:41:56.14
>>714
じゃ、諸葛亮は長安近くまで攻め込んで占領したということだね
716無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 19:25:32.05
>>714
動物並の知性しかない人というのは
第2次北伐と第三次北伐の間が一年くらい空いてるとか勘違いしてたり、
第三次北伐の上限を勝手に妄想でおかしな事にして指摘されて発狂してたような人の
事ですよね。そして現在進行形で妄想で相違点や矛盾点に整合性を付けられずに
発狂している>>711のようなお方の事ですよね。まったくもって同感です。
こちらもいい加減失笑ものとしかいえない状態でして。

全然証左じゃないね。
お前さんの言ってる事で、仮に「郡治を移した」となっても
それで「移民がなされたそれ以後、
武都とは京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落の事を指しているのである(キリ)」
なんて事はどこにもない。
>楊阜伝の記載はそのまんまですし
寝言を言わない様に。伝には移民がなされた事は書いてあっても、
それ以後の武都が三郡にまたがるみょうちきりんな範囲になったなんて事はどこにもない。
お前さんはただ単にそんな史実に存在しないものを主張しないと、お前さんが言っている
「武都完全放棄論」が破綻するから勝手に曲解して発狂してるだけ。
で、ここからは例によっておさらいになるけど、
・お前の言うような三郡にまたがるみょうちきりんな範囲の
「武都」という地域はどこにも史実的痕跡がなく、晋代には普通に漢代から置かれ、
諸葛亮が攻略した範囲と変わらない範囲の武都が記されてるので
お前さんの妄想世界にだけ勝手に登場して勝手に消滅した事になる。
普通に考えれば、お前さんの妄想世界にしか登場しない、お前さんの妄想という事になる。
ちゃんとこれについて説明してみなさい。
・晋書の地理志には武都郡はっきりと「漢代から置かれてる郡です」と書いてあって
人口も租税対象としての戸数で表記されてる。さらにその範囲も漢代からの地域とほぼ変わりない。
これでお前の完全放棄論は明確に矛盾する。これについてもちゃんとした説明を要求する。
・さらにいうなら、お前の妄想世界において、武都は魏側から完全放棄されてるはずなのに、
諸葛亮が攻略しそうになると、魏側が慌てて救援に来るとか、明らかに矛盾しまくりだから。
ぶっちゃけこれで充分、「移民後でも武都が本来の地域で機能していた」と十分に納得しうるぞ。
お前の妄想が発狂して認めてないだけでな。
そうでないというなら、さっさとこれらの相違点と矛盾点について、
ちゃんと明確な史実との整合性をつけて説明してみる事だな。
何度も言うがネット廃人であるお前の妄想願望はどうでもいいから。
お前はこれらの矛盾点や相違点について整合性を付けた解答を一度もしてない。
さっさとしてみなさい。何度でも聞くから。
717 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 19:35:21.97
>>716のレス続き
>>714へのレス
>曹叡は石亭で惨敗した後,わざわざ部下に良将を推挙させました。
それただ単に曹休が死亡したからだろ。実際死亡後の事として書いてあるし。

実際に魏は荊州方面からわざわざ張コウを呼び出してるくらいに必死。
陳倉を攻撃したって援軍が来ることは容易に想像できるし、
だからこそ陽動作戦を用いる意味がある。
そもそも諸葛亮が第2次北伐で用意した兵糧では勝っても維持ができない。
陽動策戦であるのは明確。
718無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 22:17:56.93
>>716
やだなぁ。郡治が遷されたという史料はあるのに,戻した史料はないのですよ。
理解できないおバカさんがいるようですが。
いやそんな史料があるのなら早く見せてくださいよ。

あといいかげん,楊阜が小槐里に去った後の武都郡が,
あなたの妄想のとおりであったことを立証してくださいよ。
後漢や西晋期と変わらない場所で機能していたと言うのですよね。
なぜ諸葛亮は第1次北伐で素通りできたのですか?あり得ないでしょう。

>>717
>それただ単に曹休が死亡したからだろ。実際死亡後の事として書いてあるし。
相国(丞相)不在の曹魏で筆頭臣下だった曹休が死んだのを,
推挙させて埋め合わせできるとでも思っているのですか。さすがですね。

>陳倉を攻撃したって援軍が来ることは容易に想像できるし、
>だからこそ陽動作戦を用いる意味がある。
日本語として全く意味をなしていませんが。
なぜ陳倉の西南にあって,しかも漢中からとほぼ同じ距離にある武都郡を奪うのに,
長安や荊州といった東方から敵の援軍を呼び寄せる必要があるのでしょうか?
719無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 23:33:52.75
>>718
郡治が遷されとはどこにも書いてないけどなー
徙郡とは書いてある

じゃ「徙郡」の意味は?ちゃんと調べたかなー?
郡治を遷したとかって意味ではねーよ?
720無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 23:35:14.27
12月に漢中から進軍を開始し、陳倉に着陣して20数日間の城を攻め
撤退を開始し、途中追撃してくる王双を討ち、漢中に帰還する

この肯定を12月中(1ヶ月内)に終えたと云う阿呆を相手に
延々と同じレスを繰り返すのも阿呆
721無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 23:46:34.17
>>720
明帝紀には「12月に漢中から進軍した」じゃなくて「12月に陳倉包囲した」としか書いてないもんな
諸葛亮伝だと「冬」に出撃だから10月から12月のどこかに出撃だ

12月に漢中から進軍を開始し、陳倉に着陣して20数日間の城を攻め
撤退を開始し、途中追撃してくる王双を討ち、漢中に帰還する
なんて主張してる奴はお前の頭の中にしかいないような気がするぞ
722無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/18(火) 01:04:39.70
>>721
50くらい前の過去レスも読めない池沼?
723 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/18(火) 01:09:51.71
>>722
具体的にどこで「12月中に出発した」って書いてある?
12月の出来事ということは強調してるが出発まで12月なんて言ってる奴は俺は知らん
見落としてるのかな?
724 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/18(火) 05:48:05.76
>>720 >>722
ていうか、その件に関しては少なくとも王双を討ち取るまでは12月の出来事だとして
決着ついてるじゃん。例によって発狂してる武都完全放棄君が自爆して
スルーして逃亡し続けてるだけで。ていうか、印象操作をねらったご当人ですか?
725無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/18(火) 20:40:06.47
>>719
あなたの脳内ではともかく,「徙郡」って「郡を遷した」って意味ですよ。
楊阜伝の場合,住民が小槐里のある扶風郡以外の京兆や天水にまで分散したって分かっているから,
「郡治を遷した」と理解されているわけで。

もし違うと仰られるのでしたら,どう訳するのかぐらい示してくださいよ。
726無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/18(火) 21:00:58.49
>>725
「徙治」が「郡治を移動させる」って意味の言葉
「徙治」は三国志中でも何度か出てくるし史記以来の伝統ある治所移動の表現な

てか武都は諸葛亮に落とされてるのに移動してたらおかしい
727 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/18(火) 21:07:42.44
>>718
やだなあ、移民がなされたそれ以後、
武都とは京兆、扶風、天水に移住した元武都民の集落の事を指しているのである(キリ)」
という史実はどこにもないのですよ。
大体、ご自分は三郡にまたがるみょうちきりんな範囲の武都が存在しうる、とか
述べて発狂しておいて、それが史実に一切現れず、反対に晋書においてはっきりと
「漢代から置かれてる郡です」とはっきり書かれてて租税対象たる戸数で人口書かれてて
範囲も諸葛亮が攻略したのと変わりなく、しかも諸葛亮が攻略しようとすると
完全放棄したはずなに魏将があわてて助けに来る、という矛盾した状態なのが史実であって
お前の妄想願望とは違って、史実の武都は普通に移民後でも継続されてたと見るのが妥当なわけで。
いくら妄想と史実が違うからって発狂されたってこちとら困るわけでしてw
さっさと貴方の妄想と史実の隔てまくりの差異を整合性つけて早く答えてもらいたいのですがw
貴方は妄想願望で発狂し続けるだけで、多数の相違点に全く答えないのはなんでですか?w
単に自分の言ってる事が妄想願望に過ぎないとご自分が一番わかってるからでしょう?w

立証は普通に上記に書いた諸点で行える。ぶっちゃけ、妄想願望粉砕されて発狂中のお前が
さっさと認めればそれで済む話。しょうがないからおさらいになるが、
・お前の言うような三郡にまたがるみょうちきりんな範囲の
「武都」という地域はどこにも史実的痕跡がなく、晋代には普通に漢代から置かれ、
諸葛亮が攻略した範囲と変わらない範囲の武都が記されてるので
お前さんの妄想世界にだけ勝手に登場して勝手に消滅した事になる。
普通に考えれば、お前さんの妄想世界にしか登場しない、お前さんの妄想という事になる。
ちゃんとこれについて説明してみなさい。
・晋書の地理志には武都郡はっきりと「漢代から置かれてる郡です」と書いてあって
人口も租税対象としての戸数で表記されてる。さらにその範囲も漢代からの地域とほぼ変わりない。
これでお前の完全放棄論は明確に矛盾する。これについてもちゃんとした説明を要求する。
・さらにいうなら、お前の妄想世界において、武都は魏側から完全放棄されてるはずなのに、
諸葛亮が攻略しそうになると、魏側が慌てて救援に来るとか、明らかに矛盾しまくりだから。
ぶっちゃけこれで充分、「移民後でも武都が本来の地域で機能していた」と十分に納得しうるぞ。
お前の妄想が発狂して認めてないだけでな。
そうでないというなら、さっさとこれらの相違点と矛盾点について、
ちゃんと明確な史実との整合性をつけて説明してみる事だな。

>なぜ諸葛亮は第1次北伐で素通りできたのですか?あり得ないでしょう。
天水だの安定だの、他の諸郡も守衛に徹するのがせいぜいで、諸葛亮を妨害なんかできてない。
武都一郡にいるだけの兵力で蜀軍を止められると思う方がおかしい。
とりあえず、お前はそうやって妄想願望書くんじゃなくて、さっさとお前の妄想と
史実における膨大な相違点をさっさと答えてみろ。何度でも聞くから。
728 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/18(火) 21:22:38.60
>>718宛続き後段
曹休はもともと南方戦線の司令官だったわけで。
実際に呉軍も曹休を騙す事で引っ張り込む謀計を立てたわけ。
それがいなくなったのだから、南方の防備の為に人材は一人でも多く欲しい、
というのはごく自然な発想。どうしてお前って常識的な解釈をしないで
妄想願望で発狂するのだか謎すぎなんですけどw
まあ、妄想願望満載のネット廃人ともなれば、それがデフォなのだとこっちは納得するだけだけどなw

いや、これで普通に日本語として意味は通るよ。妄想願望で発狂しているお前が
それを認めると論旨がボロボロになってる事を認めてしまうから、それを認めてないだけで。
というか、これまでに何度も日本語読解で滅茶苦茶な事やって、その度に突っ込まれて発狂し、
都合悪くなると逃亡スルーを続けてるネット廃人さんが、日本語読解について
どの面下げて語られるのか、非常に興味深い所ですなw馬鹿丸出しのネット廃人は厚顔無恥というほかない、と
言うしかないとはわかってはいるのですがねw
で、それであえてなお、貴方にお聞きしたいのですが、貴方はこれまでに何度も日本語読解で馬鹿を晒して
発狂してきたのがデフォでしたけど、それでなお、貴方ご自身に日本語読解などと
主張できるだけのものがあると本気で思っていらっしゃるのですか?w是非ともお答えくださいw
馬鹿丸出しのネット廃人の妄想願望の内容に興味が尽きないのでw

そのまま「武都を攻めるぞ!」という感じで動き出そうとすれば、
魏側は武都方面の防御を固め、蜀軍を防いでおいて、その上で援軍を派遣して撃退しようとするでしょうね。
で、諸葛亮としてはそんな手に乗ってやるつもりはなく、
最初に別方面を攻撃する事によって、魏側の注意をそこにひきつけて陽動とし、
その上で武都を攻略する必要があったわけ。実際にこの通りに事態は進行し、
2郡はあっさりと諸葛亮の手に入ったのが事実。
いやー、諸葛亮の掌の上で転がされた事を認められない哀れな魏の妄想崇拝者さんは
妄想願望で発狂するしかなくて笑えますなww
729無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/20(木) 21:29:33.25
>>726
でしたらあなたにとって,「徙郡」はどう解釈されるのでしょうか?
人々がそれに従ったと続く以上「郡そのものを遷した」と解すべきでしょうが,
京兆、扶風、天水に移住させたのですから,やはり「郡治を遷した」でいいと思いますが。

>てか武都は諸葛亮に落とされてるのに移動してたらおかしい
楊阜伝の記述は曹操期の話です(曹丕期にまたがった可能性はありますが。)。
そして曹叡期に武都郡が本来の地で機能していたなんて根拠はどこにもありません。
信じる信じないはあなたの勝手ですが,せめて時系列ぐらい把握しましょうよ。
730無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/21(金) 06:31:30.72
>>729
単に郡の人間を移住させたという意味だろ

郡治を移動する意味の徙治という言葉は三国志中にも出てくる
「徙治」と「徙郡」は陳寿によって使い分けられている

>そして曹叡期に武都郡が本来の地で機能していたなんて根拠はどこにもありません。
その通り、本来の地でないという主張がありえる
では移動先の「小槐里」が武都だから長安のすぐ側が陥落していることになる
北伐大成功だな!

でも何でそんなところに郭淮が救援に行くんだ?
あいつの管轄は涼州だろ?
731無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/21(金) 19:22:41.23
>>729
おーい、俺の>>727>>728に対する解答はどうしたんだ?
都合悪い所だからってスルーしてんなよ。

>そして曹叡期に武都郡が本来の地で機能していたなんて根拠はどこにもありません。
何度も言ってるけど、これについての立証は普通に上記に書いた諸点で行える。
ぶっちゃけ、妄想願望粉砕されて発狂中のお前が
さっさと認めればそれで済む話。しょうがないからおさらいになるが、
・お前の言うような三郡にまたがるみょうちきりんな範囲の
「武都」という地域はどこにも史実的痕跡がなく、晋代には普通に漢代から置かれ、
諸葛亮が攻略した範囲と変わらない範囲の武都が記されてるので
お前さんのいう三郡にまたがるみょうちきりんな範囲の武都とは
お前さんの妄想世界にだけ勝手に登場して勝手に消滅した事になる。
普通に考えれば、お前さんの妄想世界にしか登場しない、お前さんの妄想という事になる。
ちゃんとこれについて説明してみなさい。
・晋書の地理志には武都郡はっきりと「漢代から置かれてる郡です」と書いてあって
人口も租税対象としての戸数で表記されてる。さらにその範囲も漢代からの地域とほぼ変わりない。
これでお前の完全放棄論は明確に矛盾する。これについてもちゃんとした説明を要求する。
・さらにいうなら、お前の妄想世界において、武都は魏側から完全放棄されてるはずなのに、
諸葛亮が攻略しそうになると、魏側が慌てて救援に来るとか、明らかに矛盾しまくりだから。
ぶっちゃけこれで充分、「移民後でも武都が本来の地域で機能していた」と十分に納得しうるぞ。
お前が妄想で発狂して認めてないだけでな。
そうでないというなら、さっさとこれらの相違点と矛盾点について、
ちゃんと明確な史実との整合性をつけて説明してみる事だな。
732無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 09:50:57.50
>>730
中央研究院のサイトで「徙郡」を検索したら,楊阜伝以外では,
>後為夷貊所侵,徙郡句麗西北,今所謂玄菟故府是也。(東夷伝東沃沮)
しか見当たりませんでした。李厳伝の「嚴欲徙郡治舍」は別として。
ちくま訳(楊阜伝は今鷹真氏,東夷伝は小南一郎氏)はどちらも役所を移したとします。

特に楊阜伝の場合,「徙郡」に人々が従ったとする記事の後にその統治を記します。
「徙郡」によって移住者が楊阜の統治下でなくなったとしたら,文章として無茶苦茶になります。
「徙郡」後も楊阜が統治したとすべきでしょう。

>その通り、本来の地でないという主張がありえる
>では移動先の「小槐里」が武都だから長安のすぐ側が陥落していることになる
諸葛亮はその後の北伐でいずれも小槐里の西に出て司馬懿に防がれました。
曹魏側も小槐里の西にある斜谷を経由して漢中を目指しました。
この主張が成り立たないのは明らかでしょう。

なお念のため,郭淮は雍州刺史であり,関中と隴右は雍州ですよ。
曹操が置いた雍州を認めなかった蜀漢側が隴右を涼州と呼び続けただけで。
733無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 09:55:48.93
>>731
アレな人の相手をするのは疲れるのですよ。

>三郡にまたがるみょうちきりんな範囲の「武都」
いいかげん「僑郡」を調べたらどうですか。
大まかに言えば,集団移住した人々のため,移住先に本籍地の役人を任命して統治させたものです。
僑郡そのものは東晋期以降の存在ですし,土地が奪われる前だから「みたいなもの」ですが。
郭淮が救援に向かったのも,一応は曹魏領ですから無視できなかったからでしょう。
むしろ第1次北伐で諸葛亮が素通りしたことや,
奪った陳式に武都太守や守備隊を破った功績が残らないことの方が重要でしょう。
(あなたは>>727で「止められなかった」とかアホなこと言っていますが,
抵抗どころか逃亡も降伏もしていないのですから,いなかったのでしょう。)

>晋書の地理志
確かに西晋期の武都郡の由来は漢代に置かれた武都郡ですが,
他に晋書地理志に書いてあるのは雍州から分かれて秦州に属したことだけですが。
まさか蜀漢側が奪ったことすらなかったとでも言いたいのでしょうか?

前にも挙げましたが,
>獻帝建安二十四年(219年),劉備攻取了曹操控制下的漢中郡,阻斷了武都與雍州的聯係,
於是曹操棄武都郡,遷其人口於右扶風小槐里。武都郡遂為蜀漢佔據。西晉時武都改屬秦州。
ttps://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E9%83%BD%E9%83%A1
wikiですが,あなたの妄想よりはマシでしょう。
734無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 12:42:20.40
>>732
>この主張が成り立たないのは明らかでしょう。
そう、成り立たない
そんな場所を陥落させることなんて成り立たないのに武都を落とした、と明記されてる
つまり武都が移動してなかったという証拠
徙郡じゃなくて徙治という言葉が別にあって、三国志でもそれで郡治を移動させてると書いてある

劉備の攻撃に前後して遠いからという理由で民衆を京兆、扶風、天水に移動させてるのは曹操の頃
それからまた人が住み着いて結局守らざるを得ない状況だったんだろ
今と違って住み易い場所は限られてるからな
735無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 12:44:14.17
一つ真面目に質問に答えて欲しいんだけど
アンタ武都には大したもんがないって立場だよね?

武都が大したことないというのなら何故守る?
736 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 19:30:13.41
>>733
単に都合悪い事だから逃げ回ってるだけだろ。

だからそんな痕跡はどこにもない。そんなものが存在した史実的痕跡がどこにもない。
晋書にある武都は普通に「漢代から置かれてる郡です」とはっきり書いてあり
さらに言うと、その範囲も漢代のものとほぼ変わりない。どっからどう見てもお前の妄想と矛盾してる。
>郭淮が救援に向かったのも,一応は曹魏領ですから無視できなかったからでしょう。
完全放棄されてるんだったらそんなことする必要自体がない。
>奪った陳式に武都太守や守備隊を破った功績が残らないことの方が重要でしょう
>抵抗どころか逃亡も降伏もしていないのですから,いなかったのでしょう。
完全な妄想。正史における記述は基本的に簡素なもので、制圧した場合はそのまますらりと
「~が○○を制圧した」と書くだけの場合も多い。正史においてはっきりと「陳式が武都・陰平を平定した」と
はっきり書いてあるんだから、陳式が守備隊などを制圧して攻略したと見るのが妥当。
というか、諸葛亮伝にははっきりと「陳式攻武都、陰平」「遂平二郡」とはっきり書いてあるんだから
お前の妄想と違って普通に攻撃して攻略してる。
これを否定するんだったらそれこそ正史のほとんどの攻略記述が守備隊不在になるな。
というか、この時点で「陳式が武都を攻めた」とはっきり書いてあることになるので、
武都には陳式が攻めて戦うだけの守備隊、ひいてはそれを養う人口が存在したことになる。
よってお前の妄想は完全に否定されたわけだ。いつも通り妄想論旨に相違点出るの早いな。

晋書の地理志には武都に対して「漢代から置かれてる郡です」とはっきり書いてあり、
さらにはその「武都」を構成する5つの県についても書いてあるが、
その5つの県が存在する位置は漢代の「武都」とほぼ一致する。
どっからどう見てもお前のいうようなみょうちきりんな範囲の「三郡にまたがる武都」など
存在してない。ぶっちゃけ、お前の妄想世界にだけ勝手に登場して勝手に消滅したもんが
実在したというなら、さっさと史実的痕跡を出せ。

その記事でわかるのは「魏側が人口を移した」という事だけ。お前の妄想するような「三郡武都」などどこにもない。
さらに言うと、蜀漢側の攻略した武都と晋書に記される武都、さらには漢代から続いている武都が
同一のものであると、その記述で明確になる。となれば、武都に晋書において明確に人口が租税対象である戸数で存在する事、
さらには正史では「陳式が武都を攻めた」とはっきり書いてある事などからして
上記にあるように、魏側が人口を一部移住させた後も、
武都には守備隊を養えるだけの人口が存在していた、という事で完全放棄などされてなく、
ましてやお前の妄想する「三郡武都」などどこにもない事になる。
さっさと矛盾しまくりの妄想解釈と史実との相違点を整合性つけてみる事だな。
737 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 19:37:26.00
>>733
妄想論旨で発狂して史実との整合性がつかなくなってる>>733
武都完全放棄君に対する史実との相違点おさらい
逃げ回ってないでさっさと整合性つけて答えてみろ

・お前の言うような三郡にまたがるみょうちきりんな範囲の
「武都」という地域はどこにも史実的痕跡がなく、晋代には普通に漢代から置かれ、
諸葛亮が攻略した範囲と変わらない範囲の武都が記されてるので
お前さんの妄想世界にだけ勝手に登場して勝手に消滅した事になる。
普通に考えれば、お前さんの妄想世界にしか登場しない、お前さんの妄想という事になる。
ちゃんとこれについて説明してみなさい。
・晋書の地理志には武都郡はっきりと「漢代から置かれてる郡です」と書いてあって
人口も租税対象としての戸数で表記されてる。さらにその範囲も漢代からの地域とほぼ変わりない。
これでお前の完全放棄論は明確に矛盾する。これについてもちゃんとした説明を要求する。
・さらにいうなら、お前の妄想世界において、武都は魏側から完全放棄されてるはずなのに、
諸葛亮が攻略しそうになると、魏側が慌てて救援に来るとか、明らかに矛盾しまくりだから。
・諸葛亮伝には「陳式が武都・陰平を攻めた」「遂に2郡を平定した」という記述がはっきりと存在する。
つまり武都には守備隊がいて、それを養えるだけの人口が存在した事になる。
ちゃんと説明してみろ。自分で言い出したことなんだから。
・お前が挙げた記述自体で漢代から続いている武都、蜀漢が攻略した武都、
さらには西晋における武都、が同一のものである事が記されている。
上記の諸点から見るに普通に人口がいて、守備隊もいると見るのが妥当という事になる。
さっさと整合性つけて答えてみろ。お前の妄想はいらない。

ぶっちゃけこれで充分、「移民後でも武都が本来の地域で機能していた」と十分に納得しうるぞ。
お前の妄想が発狂して認めてないだけでな。
そうでないというなら、さっさとこれらの相違点と矛盾点について、
ちゃんと明確な史実との整合性をつけて説明してみる事だな。
738無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 22:14:01.18
>>734
「嚴欲徙郡治舍」は李厳伝じゃなく楊洪伝でしたので訂正します。

>そんな場所を陥落させることなんて成り立たないのに武都を落とした、と明記されてる
>つまり武都が移動してなかったという証拠
逆ですよ。諸葛亮が奪った武都郡に武都太守はいなかったのですよ。
要は連れて行けるだけの民を連れて,郡ごと逃げて行ったから「徙郡」なのですよ。
なぜ統治機関としての武都郡と場所としての武都郡を分けて考えられないのでしょうか?

せっかくなので「徙治」も検索しました。『三国志』本文で劉焉伝が2つ,王昶伝と孫権伝が各1つありました。
このうち劉焉と孫権は本拠地の移転ですし,王昶も都督する荊州内での移転です。
>>732で挙げた東沃沮は,玄菟郡が日本海岸から遼寧省内に「徙」したため,
玄菟郡ではなく楽浪郡に属するようになったとされます。
これは玄菟郡が移転したものの,東沃沮はついて行かなかったからでしょう。

>>735
奪われていない以上は一応領土ですから。
一部隊なら迎撃できるかと思って出撃したけど,もう一つ来たので諦めたってとこでしょう。
739 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/25(火) 00:11:35.50
>>735
だって放棄したんだろ?

放棄路線確定させといて奪われそうになったらも何もないじゃん
740無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/26(水) 03:11:05.31
>>738
おーい、>>736>>737に対する返答はどうしたー?
いつも通り、都合悪い所から逃げまわるのやめろと何度もいわれてるだろー

それから、上でも書いてるように
諸葛亮伝にははっきりと・諸葛亮伝には「陳式が武都・陰平を攻めた」「遂に2郡を平定した」という記述がはっきりと存在する。
つまり武都には守備隊がいて、それを養えるだけの人口が存在した事になる。
全然完全放棄なんかされてねーじゃんって話になるだろ。
他の諸点についても早く返答しろよー。
741無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/26(水) 20:58:23.46
>>740
>七年春,亮遣陳式攻武都、陰平,遂克定二郡。(後主伝)
>七年,亮遣陳式攻武都、陰平。魏雍州刺史郭淮率眾欲擊式,亮自出至建威,淮退還,遂平二郡。(諸葛亮伝)
蜀漢王朝の公式見解ですら,
>前年燿師,馘斬王雙;今歲爰征,郭淮遁走;降集氐、羌,興復二郡,威鎮凶暴,功勳顯然。
ですよ。戦わずして引き返した郭淮以外に曹魏側の部隊なんて見当たりません。
あなたの目にはいったい何が映っているのでしょうか?
742無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/27(木) 02:07:29.59
>>741
普通に「陳式が攻めた」と書いてあるわけですが。
「攻めた」「平定した」とある以上はその相手となる部隊がいるわけですが。
この「攻めた」だけでは「守備隊がいない」という貴方の解釈だと
正史における多くの攻略戦が守備隊不在になるわけですが。
三国時代の多くの戦いはがらんどうだった、という事でよろしいのでしょうか?
というか、>>736>>737についてもちゃんと答えてもらえませんかね。
そうやって、都合悪い所はスルーして逃げ回る癖はいい加減やめた方がいいと、
あちこちでいわれてるでしょうに。
743無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 10:24:48.01
>>742
少なくとも太守以下が「徙郡」でいなくなったと明記される武都郡については,
まともな守備隊なんていなかったと見て問題はないでしょう。
もちろん哨戒部隊等がいた可能性までは否定しませんが,
現に第1次北伐で素通りした以上抵抗可能な部隊がいたとは思えません。

守備隊が引き籠ってやり過ごしたと言う人がいますが,
武都郡治の下弁ってまさに諸葛亮の進攻路上にあったのですが。
蜀漢側がそんな所にいる敵兵を放置するわけないでしょう。
(念のため,包囲等して無力化した形跡もありません。)

太守が民を連れて避難したことの意味を少しは考えたらどうでしょうか。
もっともその前提が理解できないようですが。
744無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 20:04:48.13
>>743
それは貴方の願望でしかないかと。
まともな守備隊がいたって諸葛亮本隊数万に対してどうやって抵抗すんですか。
迂闊にでれば殲滅されて終了ですよ。

趙雲軍を陽動に使っての急襲策戦ですから、普通に放置しとくと思いますが。
諸葛亮本隊数万に敵するだけの兵力もいない武都なんかに時間をかける意味も必要もないですし。

そんな寝言を言うんだったら、>>736>>737にある貴方の妄想願望論旨と
史実における数々の相違点にさっさと答えてくださいよ。
そんなにご自身の論旨に自信があるという割には都合悪い所からは
逃げ回り続けるだけっていうのは一体どういう事なんですかね。
そんなに自信があるんだったらちゃちゃっと整合性つけて答えてみてくださいね。
まず話はそれからですよ。
745無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/30(日) 01:04:51.39
>>744
>まともな守備隊がいたって諸葛亮本隊数万に対してどうやって抵抗すんですか。
横から失礼します
まともな守備隊とはどの程度の兵力なのかにもよりますが後方を扼すことはできます
補給路上にまともな敵勢の戦力がいたら普通は放置できないですし、放置しません

また、まともな兵力がない所に侵攻しても、攻める、平定するとの言葉は用います
平定とは、従わない者を力によっておさえつけ、平静な状態にする事で
従わない者の中に兵だけでなく民も含まれます。
特に武都は異民族が多く住まう場所だけに民を平定する方が大変だと考えられます。
746 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/30(日) 08:59:06.39
>少なくとも太守以下が「徙郡」でいなくなったと明記される
いなくなったと正史では明記されてない
出典どこだ?
747無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/06/30(日) 09:46:33.34
>>744
最前線にいる守備隊が抵抗も降伏も逃亡もせず,ただ城の中から眺めていたと。
そして攻める諸葛亮が帰り道でもあるのに手も出さずに通り過ぎたと。それこそ寝言じゃないですか。
さらに言えば,その程度の守備隊しかいなかったのであれば,なぜ陽動作戦を必要とするのでしょうか?
むしろあなたの陽動作戦説は成立しません。

>>736,>>737
1 武都郡の「徙郡」は楊阜伝に明記され,『三国郡県表』や>>684で挙げた各書・論文で取り上げられています。
2 『晋書』地理志の件は>>616で答えたとおりです。三国時代の話は書いていないので参考になりません。
3 蜀漢側が攻めたのも,郭淮が救援しようとしたも,どちらも一応は曹魏領だったからに過ぎません。
ただ私は平定を拠点を築いただけだと考えていましたが,>>745氏の言われることの方が適切でしょう。
4 「三郡武都」って何ですか?京兆、扶風、天水郡に遷った民のために武都郡を移(僑置)しただけです。
結局楊阜伝という史料や僑郡という用語を理解できないあなたが喚いているだけじゃないですか。
748 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN
諸葛亮+馬謖+姜維=蜀の三大害虫
749 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/07/08(月) NY:AN:NY.AN
三瓶はアレかもね?インポかゲイ
たどたどしいしゃべり方が平と波長があったのだろう
これで三瓶が自宅で平のオッパイの感触思い出しながら悶々としていたら悲喜劇
750 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN
プロパイダー規制解除。ようやく書き込みできるー。

>>747
数万もいる敵兵に対して寡兵で打って出て壊滅しろとでもいうんですか?
さすがにそれは無理ありすぎですかね。
帰り道のときだって数万の兵に無理して刃向ったって瞬殺されるだけかと。

はいはい妄想妄想。というか、人がいなくなったと見たら急に強気になるところは
いつも通りですねw
1.でも実際に魏将が諸葛亮が攻略しそうになると、慌てて救援に来てます。
というか、陳式が攻めた、とはっきり書いてあって守備隊がいたとわかります。
2.全然答えになってないとはっきり言ってます。
晋書の項目には「漢代から続いてる郡です」とはっきり書いてありますし、
範囲が同様だってほぼ同様です。
これで継続性がないとするならちゃんとした記述なり論証なりを出されるべきですな。
3.それじゃあ、明らかに説明がつかないですね。「陳式が攻めた」と
はっきり書いてあって、拠点築いただけ、という表現とは明らかに矛盾してます。
というか、>>745って明らかに貴方だとしか思えないのですが。ご自分に賛同されても
こちらとしてはなんとも。
4.貴方が言い出した事ですよ。
結局のところ、「3郡に住民を移住させた」という事は事実であっても
「それ以後、武都とは三郡にまたがる範囲の元武都民の集落のことになったのである!」
という貴方の妄想と願望を示す記述はどこにもない、と言ってるんですよ。

結局何も肝心な所を論証できてないじゃないですか。やりなおしですね。
さっさと答えてみてください。>>736>>737の各相違点に整合性をつけて答えてみてください。
751 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN
>>745
いや、毎度思うのですが、貴方がいう「横から」ってどう見ても「縦から」ですよね。

実際に出撃はされてませんよ。
諸葛亮が北伐をした時には、文字通り魏の領地のど真ん中に毎回出撃してますが、
守備隊は各地を守るのが精いっぱいであって
ろくに後方を扼すなんて事やってません。

そんな記述どこにもないですよ。
普通に郡を「攻めて」攻略した、平定した、と書いてあるのに守備隊相手じゃない、
と主張されるのであれば、民を相手に戦ったという記述なり論証なりを出してほしいものですな。
752無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN
蜀は頑張ったほうじゃない。孔明の死後30年持ったわけだし。
戦犯なんかいなかった。
753 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN
どうだか
754 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN
>>752
責任の所在を曖昧にするのは最低の考え
何年保とうが国を滅ぼした責任は誰かがかぶらなアカン

1に国主、2に軍事部門の筆頭家臣
最低限、この2人は戦犯と云われても仕方ない
755 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/07/23(火) NY:AN:NY.AN
はいはい、ごめんな、俺が悪かった。
お前等みたいな現実が分からないキチガイには何を言っても無駄だよな。
お前等バカ共はさ、原の不倫1億の話はスルーするよな。監督以前に人としてどんなんだろうな。
人望もなく空っぽあげくに女房が妊娠中に女作りそれを脅かされて金払うような奴の信者ってキチガイばかりだな。
V字回復してるとかぬかすバカもいるがしてね~よ。アホ。テメー等の都合のいいように物事考え点じゃね~よ。
756 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/07/23(火) NY:AN:NY.AN
ぼくはイケメンまでよんだ
757 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/07/23(火) NY:AN:NY.AN
マタ
758無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/07/23(火) NY:AN:NY.AN
>>752
魏と数年しか戦えなかった諸葛亮がヘッポコで
30年も戦えた姜維が凄いまで読んだ
759 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/07/24(水) NY:AN:NY.AN
>>758
たわけ
姜維が軍権を一手に担えたのは費禕の死後からだ
254年から北伐を始めて足掛けたった9年で蜀を滅亡に追い込んでる

孔明は北伐を始めて足掛け7年で陣中に没するが
自分が死んだだけで蜀を傾ける所までは追い込んでないから
760 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/07/24(水) NY:AN:NY.AN
1万の兵で我慢しとけよな
761 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/07/24(水) NY:AN:NY.AN
私見をいうと戦犯は、1に劉備、2に劉禅、3に諸葛亮。

劉備は、夷陵で馬良・黄権をはじめ、その他の中堅武将を多く失った罪が大きい。
その結果、諸葛亮が北伐で前線に出張らないといけなくなった(...というと言い過ぎかもしれんが)。

劉禅は言わずもがな。そもそも君主として....

諸葛亮は、劉禅のいっぱしの君主にできなかったことかな。
自身の後継としては、費褘・蒋エン・姜維を残したので良し。

姜維の時代までくると、挽回は不可能なので遅かれ早かれ滅亡は避けられない。
費褘・蒋エンがいた頃は蕭何役(と言っても、兵站が間に合わないので出征させない)を
担っていたので、大崩れはしなかっただけで、滅亡のカウントダウンは既に始まっていた。
762 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/07/27(土) NY:AN:NY.AN
諸葛亮の息子も明らかに戦犯の一人なのに、最後派手に戦死したからとかいう謎の理由で許されてるよね
763無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/07/27(土) NY:AN:NY.AN
どう考えても関羽が第一の戦犯だろ

関羽の役割は荊州を守ることであって攻めることではない。
764 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/07/28(日) NY:AN:NY.AN
>>763
隆中対もう一回読み返せ
765無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN
キッシンジャー語録

・日本は経済大国になってしまった。もっと早く潰しておくべきだった。
・東アジアはアメリカと中国の両覇権国で支配する地域だ。
・日本には絶対に核武装させてはいけない。
・台湾や韓国や日本ごときの為に、アメリカが中国と戦争するなんて馬鹿げている。
・中国の経済発展と軍事大国化は、アメリカの利益になる。
・日本の自主防衛を封じ込めると同時に、日本を中国、韓国、北朝鮮、ロシアから
 分断して孤立化させる事が大切だ。そうすれば日本はアメリカに依存せざるを得なくなり、
 アメリカにとって都合の良い経済政策と外交防衛政策を取らざるを得なくなる。
766 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN
戦犯は常にアラビヤだ
といふか、戦争といふもの自体が
アラビヤの自作自演
より正確に言ふなれば
自己正当化活動に過ぎない
767 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN
おっと肝心なことを忘れた
金融不動産帝国農業式による
統治正常化(リセット)活動
に過ぎないのだよ
768 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN
>>765
日米の対立構造は
源平の対立構造と同じである
共通点はアラビヤが両手でガッチンコしているだけ
そして軍の幹部もアラビヤの刺客なのだ
769 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN
関羽は劉備入蜀・漢中奪取の最大の功労者である黄忠にさえ
「あんな老いぼれジジイとわしを一緒にするなーっ」
と言ったザ・唯我独尊男だからな
770 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/08/06(火) NY:AN:NY.AN
関羽が唯我独尊なのは同意だが、あの時点で劉備が全線に出張る以上、
荊州を任せれるのは、関羽以外にいない。
龐統が早死が誤算だっただけ。
771 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/08/07(水) NY:AN:NY.AN
んで魯粛もいないんで
呉蜀の架け橋的存在が双方とも存在しない
772無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN
俺は、諸葛亮だと思う。

関羽だけ残さず、諸葛亮も荊州に残っていればよかった、
夷稜の戦いも諸葛亮は死ぬ気になって止めるべきだった。
そして、劉備の助言通り、自ら皇帝になって、魏延に役職を与えていなかったら、
間違いなく20年早く長安を攻め落とせた。


司馬一族は、曹一族を追い出して、結果的に統一してるからな。
773 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN
↑典型的な狂信的孔明崇拝者

何をどう考えたら間違いなくになるんだかw
774 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN
やっと制限とれた....

>>772
突っ込みどころ満載だが、とりあえず1つだけ。

>劉備の助言通り、自ら皇帝になって、...
これをやっていれば、”間違いなく”諸葛亮が蜀漢滅亡の戦犯だったな。

司馬一族は、曹一族を追い出して、結果的に魏を滅亡させてるからな。
775 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
蜀漢はともかく三国均衡を崩した戦犯は劉備とリクソン
劉備は呉への侵攻はそこそこで止めて外交的勝利を目指すべきだったし
リクソンは蜀軍ほぼ全滅とかやりすぎた、せめてこっちもそこそこの勝利に
押さえて外交努力で蜀を撤退させるのが理想だった
776 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/09/01(日) 01:13:32.16
蜀滅亡の戦犯としては陸遜は無関係
777 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/09/04(水) 20:07:27.30
え、そんなの鄧艾に決まってんじゃん
と思ってスレを開いたらそこは見えない敵と戦う烈士様で溢れかえっていた
何を言ってるかわからねーt(ry
778 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/09/04(水) 21:37:27.81
蜀内部の人間が蜀滅亡の戦犯になるのであるからさ、敵国の人間は関係ないさ

関羽・劉備・張飛・諸葛亮(馬謖も?)・姜維
らが戦犯の有力者になりうる
779無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/09/04(水) 23:03:16.44
内部に戦犯なんて特にいないと思うけどなぁ
そもそも計画とは名ばかりの誇大妄想に近い隆中対をあそこまで進めただけでも奇跡に近い偉業だし
まぁ絵図面通りに行かなかった原因を内部に求めるとしたらやっぱ荊州の失陥じゃね?
じゃあ荊州失陥の責任が誰にあるかといえばこれは個人に求めるのは酷な話だと思うし
あえて言うなら現場の責任者だった関羽ってことになるのかな

そっから後はもう何をやっても滅亡が早まるか遅まるかの違いだけだし
780 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/09/06(金) 16:57:51.97
北は曹操に睨みを効かせ南は魯粛・呂蒙・陸遜という辣腕の都督達との外交折衝
更に劉備の益州攻めをバックアップしつつ各地の反曹勢力への蜂起の根回しとそれに合わせた樊城侵攻の準備など
ホウ[广龍]統の戦死、法正の戦線離脱により本来諸葛亮と二人でやるはずだったこれらの全てをほぼ関羽一人で采配しなきゃならなくなったことを考えると荊州失陥も宜なるかな

まぁそんな中で自分の元に残った数少ない古参武将である糜芳や士仁を蔑ろにし離反を決断させるまでに追い込んだ点においては関羽を擁護する余地はないけど
781 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/09/10(火) 11:36:02.55
生ビール

ドライブ中

うまい
782 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2013/09/10(火) 11:47:48.82
なんかクマッタ蛆虫ってゲゲゲの鬼太郎にでてくるねずみ男みたいな奴だよな
あいつは鬼太郎を信頼して金儲けに使ってただけまだましか
ゲスの極みだよクマッタ蛆虫は
783無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/09/10(火) 23:49:57.31
>>779
>内部に戦犯なんて特にいないと思うけどなぁ
>そもそも計画とは名ばかりの誇大妄想に近い隆中対をあそこまで進めただけでも奇跡に近い偉業だし

俺もそう思うな
李牧を殺したような、買収されて利敵行為に専念する家臣がいたわけでもなし
趙高のような無茶苦茶なことをする奴がいたでもない
孫コウのような国を崩壊させる暴君がいたわけでもない
敵も項羽のような完全なミスもないし、付け入るほどの後継争いもない

せいぜい、魏の曹氏→司馬氏の内紛をもっとうまく利用できなかったか
五胡の時代まで粘れなかったかと思うが結果論だしなあ

呉蜀の地域が一つになった南朝体制に持ち込めなかった時点で仕方なかったんじゃねえの
784 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/09/11(水) 21:36:59.21
諸葛亮
785無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/09/11(水) 21:49:53.40
>>783
甘寧・魯粛・周瑜が見据えていたのはその南朝体制だよな
その点南を統一せず荊州と巴蜀を抑えて孫呉を含めた三国鼎立で行けると考えていた諸葛亮はやっぱりちょっと見通しが甘かったんじゃないかなーと思わなくもない
786無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 09:35:57.46
>>785
諸葛亮は元々対呉の関しては、争おうとはしていない。
外交で友好関係さえ築ければ、意味合いとしては南朝体制と大差はないし、
事実、諸葛亮が荊州にいる間は、外交交渉でうまくやっていた。

ホウ統の生死に関わらず、入蜀後の諸葛亮の蜀移動は規定路線なので、
荊州失陥の原因は、関羽が南の守備兵をかり出して呉に付け入る隙を与えてしまったことと、
諸葛亮に代わる外交上手(いるかどうかは別として)を荊州に置かなかったことだと思う。

関羽がもう少し外交上手で、娘の婚姻話を受けていれば流れは変わってたかもね。
787 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/09/14(土) 20:26:52.83
>>786
婚姻話は受けられない
受けたら関羽は失脚だ
788無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/09/15(日) 16:53:56.75
問題は婚姻を受けなかった事ではない
同盟国との婚姻話を勝手に処理した事が大問題
この件は、現場の判断で早急に対処しなければならない事でもない
この話を受けた時、即座に返答せずに上層部に判断を仰ぐべきだった
789無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/09/15(日) 19:31:14.36
>>788
それをやったら関羽の立場が危うい
前線の方面軍司令官がいきなり対面してる他勢力から婚姻話持ち込まれた、
と連絡寄越したら君主や中央は裏切りを疑うぞ
劉備と関羽は個人的関係で信頼関係が出来てたとしても
蜀上層部全員がそういうわけではないので関羽の蜀での立場はそれだけで悪化する
790無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/09/15(日) 21:26:23.22
それは違う
そういう話が来た、ときちんと報告することこそが二心を抱いていないことの最大の証明になる
内通しているのなら水面下でやればいいのであってわざわざ報告する義理はない
むしろ劉備の裁可を仰がずに「重臣と同盟勢力トップの子弟の婚姻」という言わば外交問題を独断で破棄してしまったことで関羽が劉備を蔑ろにしていると思う人間は当然出てくるし軍規上も看過しがたい
それが≒荊州を基盤に独立勢力を築こうとしている、と思われる可能性すらある
その点に関しては>>789の下二行がぴったりそのまま当てはまる
791 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/09/16(月) 00:42:42.08
>>790
報告してもしなくても、孫権の切り崩しで関羽の立場は悪くなるんだよ
報告すれば何してんだ、という話になるし、報告しなけりゃしないで二心あり、という話になる

どうやっても関羽の立場を悪くするってのが孫権のやった関羽への婚姻持ちかけ
孫権側のリスクは孫権に対する劉備の心証が一気に劇的に悪化するってこと
792無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/09/17(火) 10:31:02.47
『北は曹操を防ぎ、南は孫権と和す』ってのは、演義だけの話??

どっちにしても、蜀の対外政策はそれ以前も上記の方針でやっていて、
今後もその方針を継続するために、独断で自分の娘の婚姻話を受けることは、
さほど大きな混乱にはならないはず。(最低でも事後報告は必須だが)

逆にそれを断ることは基本方針に反する行為で、相手を怒らせるのは目に見えているので、
事前に上の裁可を仰ぐべきだったと思う。

まぁ、それくらい関羽が自信過剰で、孫権を侮ってたってことだろうけど。
793無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/09/30(月) 20:39:28.13
>>792
いくら関羽でも独断で受けたら問題だろう。
794 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/09/30(月) 23:51:36.84
>>793
じゃあ独断で断るのは問題ないってこと?
795無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/10/01(火) 00:41:49.23
どちらも問題あるから裁可を仰ぐのが最良なんじゃないかと俺は思うが
この時点での関羽は荊州督ではあるけど仮節すら与えられてない
そんな身分で外交問題を独断で裁量して良いわけがない
796 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/10/01(火) 08:39:05.05
>>795
上の裁可を仰ぐのが最良っていうのは同意。

ただ、>>791までで報告有無に関わらず...という流れだったので、
独断で断るよりは、独断で受けるほうがマシっていう意味で書いただけね。
少なくとも、断ることで呉との関係が悪化するのは明白なのに、
あえてそっちを選んだことに問題があると。
797無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/10/02(水) 16:28:40.71
確かに
独断でやるならまだ受けるほうがマシだな

恐らく関羽は元々生粋の軍人ではなく良く言えば任侠の人、悪く言えばヤクザだから法や道理よりも義理人情や体面を優先してしまうところがあったんだろうなぁ
だからガッチガチの法家である孔明をお目付け役にしてそういった突発的な暴走を防ごうとしていたのかもしれない
798 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/10/06(日) 14:08:21.59
>>797
諸葛亮が荊州にいた時の官位は関羽の目付けできるようなもんじゃないが

その辺の基礎知識吹っ飛ばして好き勝手語っても妄想話にしかならんぞ
799無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/10/06(日) 18:23:05.97
別にお目付け役が重役である必要なんてどこにもないと思うが?
実際の位はどうあれ益州侵攻の時点で既に諸葛亮が劉備から厚い信任を得ていたことは確かだし関羽のブレーンとして残したことは間違いないと俺は思っているが
関羽が諸葛亮のことを信用していたことも後の手紙の件で見えるしな
800無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/10/07(月) 19:04:35.39
>>799
誰が重役でない、なんて言った?
当時の諸葛亮の官位は劉備直属の軍師中郎将
これは左将軍府という形式で統治している劉備の軍閥の中で
左将軍直属の属官ではなく一応独立した官に任じられているので格段に高い地位
むしろ新入りに対して高すぎる地位と言っても過言じゃない
しかし同時にこれ独自の軍を持つ将軍に対する目付け役の地位ではない

関羽の官位は襄陽太守兼盪寇将軍だから諸葛亮がここに対する目付け役になるには
襄陽の上位にある荊州牧の部下としての地位か、盪寇将軍に関連する官位を貰うか
とにかく荊州の軍事を司る何かの権利を得るか、だが軍師中郎将ってのはそのどれでもない
「別働隊の指揮官」いうのが記録に残る軍師中郎将の運用実態だし
801無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/10/17(木) 23:51:02.34
>>800
799ではない上に、官位にも疎いんだが...
「軍師中郎将=別働隊の指揮官」なら、本隊(劉備ら)が蜀に向かっている以上、
「荊州軍は任せたよ」ってことではないのか??

また、関羽の襄陽太守にしても、襄陽を領有していたわけじゃないんだから、
それほど大した役職ではない気もするけどね。
(単に、襄陽にいる曹操軍への睨みのためとか。)
802無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 19:46:09.87
>>801
そこまで規模でかい別働隊じゃないよ

あと襄陽を持ってないのに襄陽太守ってのは「そこを攻め取る責任者はアンタ」って意味なの
だから大した役職じゃないどころか、滅茶苦茶大事な役目なんだよ
803無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 23:10:48.24
>>802
襄陽太守については、おっしゃる通り理解している。
なので、関羽は対魏、諸葛亮は関羽のブレーキ役というよりは、荊州南部統治(対呉)が主担当なんだろうなと個人的には思ってる。

でよく知らないのが、諸葛亮入蜀後の後釜であろう、馬良の働きね。
呉の荊州南部侵攻(魯粛存命時の)を許し、その後の陸遜を侮って関羽が南方の守備兵を対魏へ刈り出す…って期間に、あんまり目立った動きしてないっぽいけど何してたの?
804無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/10/19(土) 16:18:37.90
>>803
史書の通りに読めば外交官として派遣されてる模様
派遣期間はわからないが派遣そのものはラク落城の頃だろうから
派遣中に劉備孫権の衝突があったのかも
この後も両者の間で外交の使者をやってた、というのが馬良の役目かもしれない

あと手紙で「掾」と書いてあって左将軍府なのか荊州のどこかの掾なのかはわからないのだが
格としては諸葛亮の後釜やって郡などを治める事は出来ないと思う

この辺は史料無さ過ぎて「思う」とか「かもしれない」とか推測するしかないのが辛い所
805 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/10/21(月) 09:46:52.07
>>804
やっぱただの外交官だよねぇ...馬良。

ただ、呉の長江以南侵攻時の関羽の動きを見ても、諸葛亮入蜀後に
関羽が荊州全域を管理していたとは思えないだよね。
あくまで、南郡防衛(対魏の睨み)だけって感じ。

格で言えば、馬良は将軍職も無いし諸葛亮の代わりはできないだろうけど、
夷陵での働きを見ても、荊州南部にはこの頃から何らかの影響力があったのではと想像...
おっしゃるように、あくまで推測だけどね。
806 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 21:32:48.27
諸葛亮が司馬懿より弱かったせい
807無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/12/04(水) 05:31:34.45
はて、諸葛亮が司馬懿に後れを取った戦いがあっただろうか?
808 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2013/12/05(木) 22:41:44.51
関羽が呂蒙に惨敗!
劉備が陸遜に惨敗!
809 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2014/02/08(土) 15:17:31.18
魏延が蝋燭を蹴飛ばしたせい
810 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2014/05/06(火) 15:29:27.29
諸葛亮が北伐したせい
811 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 22:09:15.82
>>807
格好は悪いが,「ひたすら引きこもっていたため」
何もさせなかったことは史実であろう。

絶対に譲れない渭北だけは,郭淮等に抑えさせたわけで。
812 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2014/06/01(日) 23:05:19.09
言い換えれば,司馬懿等は五丈原の北と東という最低限のポイントを抑えたから,
挑発する諸葛亮を聞き流すことができたわけで。
813 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2014/06/01(日) 23:10:54.83
聞き流すというよりは受け流すだな。
814無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2014/06/09(月) 01:22:33.76
>>1
馬謖
815 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2014/06/09(月) 12:08:52.30
816 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2014/06/09(月) 23:31:53.59
>>814
諸葛亮が馬謖に任せたせい
817 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2014/06/18(水) 13:28:04.47
劉備だろうなぁ…
そもそも時勢に逆らって無理に独立勢力なんて建てようと考えなければ滅亡することもなかった

だから主犯が劉備で教唆による共同正犯が諸葛亮ってところか
818無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2014/07/23(水) 23:23:34.17
つまり、劉備はどこかしこで野垂れ死にしていてば良かったと?
819 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2014/07/24(木) 02:28:39.69
いやそもそも郷里でまっとうに官職に就いて親孝行しながら平穏に過ごせばよかったんじゃないかと
820 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2014/09/06(土) 08:27:58.03
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821 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2014/09/24(水) 10:25:10.49
ザコで馬鹿だから呉に裏切られ魏に滅ぼされた
822 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2014/09/24(水) 15:22:34.48
ジャイ様がいれば蜀滅亡は防げた(震え声)
823 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2014/09/25(木) 02:13:43.13
劉備、関羽、張飛、趙雲、諸葛亮、ホウ統•••
こんな糞ばっかりじゃ勝てるわけねぇだろ
824 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 20:56:57.08
よく吠える糞だこと
825 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2014/10/21(火) 21:00:15.29
馬謖が山頂に陣取ったせいで孔明の遠大な計画が台無しに
826 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 00:11:49.61
三国鼎立のアイデアは良かった


戦犯は関羽
827無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2014/12/29(月) 02:15:34.92
>>818
大人しく京城で軟禁されて酒池肉林の生活してれば
呉蜀分裂しないで天下二分の計が完成していた
828 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/01/01(木) 19:31:29.84
孫権が曹操に降伏するには,諸葛亮か劉備は殺されるしかなかっただろうから,
孫権に命乞いするよりはベトナムにでも逃げた方がよかったのではないか。
829無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/01/02(金) 01:35:59.09
>>827
無理
周瑜死亡後に蜀を制圧できるだけの人間がいない
これは能力的な意味だけの話ではない

格的な意味でも呉にはそれだけの格のある将軍がいないので孫権が大軍を任せて
周囲を納得させることが出来ないし、孫権も子飼いでそれだけ信任できる人間がいない
830 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/01/02(金) 09:24:46.03
???
831 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/01/02(金) 15:10:33.59
入院する前の食生活は杜撰で、自宅で朝食をとった後、電車で「小枝」とミカンを食べてぐっすりと爆睡したあと、新橋でメロンパンとかを買い自分を満足させる。
その後、事務所に寄った後、お菓子を物色し更に口にした後、タヌキそばと天丼を注文。
スタッフに咎められるが、「1品だけじゃ蕎麦屋に失礼だ。
」と屁理屈をこいて、2品とも平らげる。
しかも見苦しいことに少しずつ残して健康に気を使っていることをアピールしていた。
832 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/01/02(金) 20:33:49.90
もう結論は出ているようだが、やはり関羽だろうな~。
張飛は、目上の者に弱く、目下の者に厳しかったのが仇となったが、
関羽は逆に、目下の者に優しく、目上の者に厳しかったのが仇となった
のだろう。
孫権から、婚姻関係を持ち掛けられた時、即座に、劉備・諸葛亮に
「ほう・れん・そう」すべきだったな。
そういう報告を受けて、疑うような劉備・諸葛亮ではあるまい。
そうすれば、どのようにでも、逆手に取って利用することができる。
例えば、孫権の申し出は丁重にお断りして、その代わり、劉備には
娘が二人いたようなので、蜀の方から婚姻を申し込むとか。
「北は曹操を防ぎ 東は孫権と和す」の戦略とも合致していると
思うのだが。
勿論、その他にもいろんな戦略があると思うが。
833 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/01/02(金) 22:26:44.02
その後、事務所に寄った後、お菓子を物色し更に口にした後、タヌキそばと天丼を注文?
834無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/01/19(月) 23:14:29.27
>>829
格とかよくわからん
カダフィ大佐だってリビア制圧して政権取った時点で階級は中尉

孫権が大軍を任せて周囲を納得させることが出来る人物といえば
周瑜が推していた奮威将軍孫瑜とかの親族でいいし
孫権の子飼いで信任できて蜀制圧できそうな能力は
後に関羽相手に荊州制圧した呂蒙とか適任
あと実際に蜀制圧の作戦立案したホウ統がいれば十分
呉の益州出身者の甘寧や李異に先導役させて
後詰めも張飛趙雲諸葛亮だけでなく呉の何人か参加させれば
劉備みたいに3年かけずに蜀制圧できると思われ
835 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/01/24(土) 01:40:39.51
いつの間にか消えてた趙雲が悪い
836 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/19(木) 22:01:52.83
やっぱり孔明との約束を破った関羽
魏と呉を同時に相手にするなんて無茶苦茶だ
837無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/02/19(木) 23:15:22.59
北伐を開始した諸葛亮
838 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/20(金) 00:29:43.28
>>837
姜維のほうがもっと
839 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/02/20(金) 00:38:08.07
姜維は洗脳され引き継いじゃったからな
840 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/20(金) 15:14:40.34
なんで疑問符がつくの?
841 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/20(金) 16:41:47.15
劉禅だろ
842 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/20(金) 21:52:04.26
夷陵で負けた劉備
843 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/21(土) 01:35:20.30
長坂で劉禅を助けてしまった趙雲
844 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/21(土) 12:57:59.84
魏延
845 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/21(土) 15:20:11.07
魏延の策を取り上げなかった孔明
846 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/21(土) 20:32:33.42
荊州奪われた関羽
847 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/21(土) 21:05:30.02
ビホウ・博仁真
848 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/21(土) 22:59:56.25
だおね(´・ω・`)
849 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/22(日) 00:08:29.41
劉封・孟達
850 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/22(日) 02:31:00.79
許緒はゴリラwww
851 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/22(日) 13:27:17.71
そのゴリラから漢中で兵糧を奪ったのは猿人張飛w
852 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/22(日) 16:03:45.15
ゴリラvsゴリラだったのか

酔っぱらってたゴリラが負けたがw
853 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/22(日) 20:21:33.09
馬ショク
854 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/22(日) 22:17:23.13
劉備の忠告を忘れて馬ショクに大事な任務を与えたのは孔明
855 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/23(月) 01:20:49.27
孔明は意外と人を見る目がない
856 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/23(月) 11:40:49.99
馬ショクを育てず、斬ってしまった孔明
857 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/23(月) 22:20:46.16
早死にしてしまったから夷陵の戦いを止められなかった法正
858 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/24(火) 11:36:07.84
劉備
859 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/24(火) 19:41:32.30
李厳
860 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/24(火) 22:32:04.70
黄皓
861 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/27(金) 21:15:26.68
魏延
名前からして魏に寝返るのは決まってた
862 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/27(金) 23:42:33.02
魏延の長安を襲う作戦を採らなかった諸葛亮
863 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/28(土) 01:33:15.83
やっぱ関羽だな
荊州を失ったのはあまりにも大きい
864無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/02/28(土) 05:17:35.37
北伐したり荊州情勢を読めなかったり
孔明はいうほどアレ
865 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/28(土) 12:33:56.87
>>864
実は演義って壮大な孔明に対する褒め殺しだったりしてw
866 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/02/28(土) 13:54:21.96
演義孔明は正史孔明の10倍以上の能力はあるな。
867 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/28(土) 16:20:51.72
演義孔明はまさしく人間じゃないからな。
868 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/28(土) 16:56:33.68
奇門遁甲の術まで使うし>演義孔明
869無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/28(土) 17:11:15.83
単に水素の場合は強火で短時間だから、中がレアっぽくなってただけじゃないの
870 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/28(土) 18:34:33.75
>>869
どれに対するレス?
871 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/28(土) 21:50:38.90
あっけなく死んだ張飛
872無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/02/28(土) 21:57:06.99
陣中に梅毒を流行らせた馬超
873 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/01(日) 00:13:04.98
>>872
実話?
874無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/03/01(日) 09:06:05.64
三国鼎立とはいうものの
蜀も呉も未開の新大陸みたいなもんだからなあの当時は
875 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/01(日) 11:58:26.89
>>874
だから孔明はさらに未開の南蛮を開拓しにいったのか
876 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/01(日) 14:23:42.07
呉も交州等の異民族に手を焼かされた
877 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/01(日) 16:28:24.99
早く死んでしまった董允
878 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/01(日) 20:53:31.22
司馬懿を取り逃がしてしまったリョウカ
879 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/01(日) 23:12:02.56
劉禅だろ
880 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/02(月) 01:02:26.96
劉禅をたぶらかした佞臣一同
881 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/02(月) 15:22:13.07
「いつものパン」があなたを殺す (デイビッド パールマター 三笠書房 2015/1/16)
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長引く痛みの原因は、血管が9割  (奥野祐次 ワニブックスPLUS新書 2015/2/7) 
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あなたの不調、実は「脳脊髄液減少症」かも!?
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すべての不調は首が原因だった!
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882無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 08:12:28.27
>>834
無理

親族はまだ信用できない
883 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 20:38:44.20
江油城主
884無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/04(水) 21:01:00.87
>>882
親族が信用できないなら
誰なら信用出来るんだよw
885 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/04(水) 23:19:16.79
本当の親族でないから劉備は劉封を処刑した
886 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/05(木) 18:15:10.42
いや、劉封は孔明が処刑したようなものだ
887 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/05(木) 21:55:15.14
そもそも劉備が劉封を養子にしたときに関羽たちが反対した
888無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/05(木) 22:41:00.36
劉備と諸葛亮かな・・・
889 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/06(金) 00:10:08.85
>>888
彼等は蜀漢の創設者でもあるからなあ
890 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/06(金) 12:50:13.55
ホウ統
あんなあっさり死ぬなよ
891 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/06(金) 20:40:49.12
ホウ統に自分の馬をあげた劉備
892 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/06(金) 21:54:17.71
李厳
893 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/07(土) 00:04:18.77
姜維
894無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/03/07(土) 05:00:01.87
なんかもうどれだけマニアックな人選とトンデモな理由を出せるかの大喜利みたいになってんな…
895無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/07(土) 11:52:04.59
>>894
そんなマニアックな人出てきてるかあ?
896 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/07(土) 15:07:58.95
パワハラ張飛
897 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/03/07(土) 15:48:22.84
>>895
ちょっと違ったな
どれだけ無関係な人選ができるかとトンデモな理由を出せるか、だな
898無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/07(土) 19:13:22.69
劉備と諸葛亮じゃなければ、劉禅とキョウイかな
899 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/08(日) 07:28:22.14
>>898
正解かも
900 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/08(日) 13:14:11.75
姜維は功もあるが
劉禅には罪しかない
901無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/03/08(日) 13:37:54.66
劉備30%
諸葛亮30%
関羽20%
姜維10%
劉禅10%
戦犯メンバーと比率
902 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/08(日) 16:09:49.49
>>901
劉禅の比率低すぎないか?
903無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/08(日) 20:02:09.47
関羽だな、一番の戦犯は
904 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/03/08(日) 21:09:20.67
>>903
これが正解
905無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/03/08(日) 22:21:38.85
そもそも元から長期的な維持は不可能な勢力が順当に滅亡しただけだから戦犯なんて決めようがない
906無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/03/08(日) 22:28:31.86
>>905
劉備100%
907 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/03/08(日) 22:29:08.47
>>905
話にならん奴だ
908 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/08(日) 22:56:33.76
>>906
あり得ない
909無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/09(月) 07:11:44.88
張飛にせよ関羽にせよ、劉備は賢かったかもしれないが部下への教育は
全然行き届いていない。よって戦犯劉備
910 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/09(月) 11:27:00.42
>>909
彼等は部下ではなく義兄弟だから
911 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/03/09(月) 14:28:28.72
関係性の程度に差は有れど普通に臣下だ
912 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/09(月) 20:53:32.06
荊州守るようになってからは関羽は劉備とは別に単独行動とってたな
913 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/09(月) 22:36:39.80
関羽の罪は余りにも大きい
914 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/10(火) 10:42:39.70
関羽
915無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/03/10(火) 21:57:03.14
100%中の100%
916 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/10(火) 22:01:34.48
>>915
誰が?
917無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/03/11(水) 01:24:04.80
関羽が悪いといったところで
荊州は益州みたいに天険でもないしな~
あの戦力で北は中原の精鋭に呉の水軍じゃ分が悪いわ

どのみち皆仲良く滅亡してるのでノーカンだろw
918 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/03/11(水) 07:09:26.61
今は2015年。
215年に実質的に三国時代に突入です。
五年後くらいが大変そうだ。
919 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/11(水) 11:22:35.62
>>917
孔明との約束を破って呉と仲違いしたのが問題だろ
920無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/03/11(水) 21:06:54.65
司馬昭に今なら蜀取れるってチクった奴
921 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/11(水) 21:57:58.60
>>920
それ蜀の人間だっけ?
922 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/12(木) 21:49:51.21
姜維
923 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/12(木) 21:56:18.34
バカ息子の教育を怠った劉備だな
924 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/03/12(木) 22:03:37.16
江東の荊州への固執が孔明の思惑以上に強かったんだろうな
まぁ関羽も傲慢すぎたみたいだけど
925 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2015/03/13(金) 01:20:42.23
「虎の子を犬の子にやれるか!」
926 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2015/03/13(金) 01:54:25.40
>>884
だから周瑜

あと自分の直属の軍人、呂蒙みたいな連中
でもこいつらは貫目が足りないので、豪族寄り合い所帯とよく表現される呉では
他の豪族の兵を上手く使うことが当時は出来なかった

孫権は赤壁から数年掛りでこいつらを政治的に捻じ伏せて
やっと呂蒙を責任者にしても話がまとまる状態にもってったんだよ

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