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1 : きつねうどん ★[] 投稿日:2020/07/27(月) 06:56:29.56 ID:CAP_USER.net [1/3回]
世間を騒がす大きな事件ほど、その顛末はあまり知られていない。

例えば、薩英戦争のきっかけとなった「生麦事件」。 大名行列に割り込んでしまった英国人ら4人を、薩摩藩士が襲撃した事件である。事件は有名だが、その後の顛末は……。

じつは、薩摩藩はどうすることもできず。苦肉の策として、架空の人物をでっち上げた。そんな実在しない人物が、あろうことか1人でしでかしたと幕府に説明。なんなら、現在は逃走して行方が分からないとまで。

まあまあ強引なお茶の濁し方に、驚愕するばかり。 しかし、そんなグレーゾーンでの対応に、幕府も慣れたもの。つまりは、持ちつ持たれつの間柄ゆえのことか。

さて、歴史上に名を残すような大事件には、驚くような裏側が存在する。そんな世間からひっそりと隠れた「その後の顛末」を紹介するのが、今回の企画。

今回、取り上げる大事件となるのが、当時、世間をあっと言わせた「桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)」。

大老、井伊直弼(いいなおすけ)が斬り殺された前代未聞の大事件。コチラの顛末を、早速ご紹介しよう。

壮絶な現場となった「桜田門外の変」
日本史の教科書には必ず登場する「桜田門外の変」。 じつは、その時期には珍しく、大雪が降った日に起きた事件だったという。

安政7(1860)年3月3日。 江戸幕府大老(たいろう)井伊直弼(いいなおすけ)は、外桜田の彦根藩邸を出発。ちょうど、江戸城へと向かうところであった。

大老とは、江戸幕府の中で、老中の上におかれる臨時職。政務を総理する幕府最高の職であり、権限も非常に強い。そんな大老ともなれば、もちろん、行列の際に付き従う者も多い。井伊直弼も、数人で江戸城へと向かったワケではないのである。記録では、徒士(かち)26名、そのほか、足軽や籠担ぎなど総勢60名をも超える大集団だったという。

一方、この行列を急襲したのは、たった18名。水戸藩士17名と薩摩藩士1名。3倍もの人数相手に、血気盛んな浪士たちは、瞬時に斬りまくったとされている。

後に判明するのだが、井伊直政の首を取られた一番の理由は、油断。大雪が降り、付き従っていた供廻りらは、刀に柄袋(つかぶくろ)をかけていた。雪に濡れるのを避けるためである。しかし、コレがまずかった。水を吸収し、柄袋のひもは余計にほどけにくくなったのだ。

当然、刀を抜くことができず、対応が遅れる。この僅かな差が被害を甚大にした。たった数分で井伊直弼の首は斬られたとも。それだけではない。直弼の供廻りも4名が即死、重軽傷者も多数。終わってみれば、ひどい有様だったのである。

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皇居桜田門の高麗門

さて、今回の惨劇だが。 どうして「桜田門外の変」が起こったのか。
2 : ログ速名無し[] 投稿日:2020/11/27 04:40:23
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